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バレンタインアイランド江の島2012

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江の島サムエル・コッキング苑 で開催されている「バレンタインアイランド江の島2012」の様子です。 MIRRORBOWLER光アート 2/4~2/14 ~数百個のミラーボールによる壮大でファンタジックな光の新世界~ ライトバルーンアート”GINGA” 2/11 ~500基のライトバルーンが揺らめく幻想空間~ 江の島シーキャンドルバレンタインライトアップ 2/4~2/14 ~高出力LED投光機による江の島シーキャンドルのライトアップ~ 江の島シーキャンドル チューリップライトアップ 2/4~2/14 ~20,000本のウインターチューリップが華やかに浮かび上がる~ 江の島ウインターチューリップ 江の島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

蒙古襲来前の内乱・・・北条時宗と二月騒動

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「二月騒動」 は、我が国が 蒙古襲来 の危機にあった時期に起こった北条氏の内紛です。 八代執権 北条時宗 の異母兄時輔は、正妻の子でなかったため、五代執権 北条時頼 の長子でありながら、家督を継ぐことができませんでした。 「二月騒動」 が起こった当時、時輔は、京都の 六波羅探題 南方という要職にありましたが、密かに謀叛を企てていたと伝えられています。 それを察知した 時宗 は、1272年(文永9年)2月11日、時輔の謀叛に加担したとみられる名越時章と名越時教の兄弟を大蔵頼季に殺害させています。 その4日後の15日早暁、 六波羅探題 北方の北条義宗のもとに鎌倉からの早馬が到着すると、義宗はすぐさま南方の時輔を襲撃し殺害しました。 ※一説には、時輔は逃れて行方知れずになったともいいます。 ※騒動後、名越時章は無罪と言うことが判明し、大蔵頼季ら5人の討手が誅されています。 「二月騒動」 の真相は不明ですが、単純な北条一門の権力争いから起こった内乱ではなく、 時宗 にとっては、蒙古襲来を前にして、得宗権力の強化という課題がありました。 (※反逆には常に警戒し、また、常に先手を打って対処しなければならなかったものと考えられているようです。) 北条時宗 この 「二月騒動」 の知らせを、流されていた佐渡で受けた 日蓮 は、「さきに予言した二難のうち、内乱が起こった。残るは外敵の侵入」と言ったといいます。 日蓮 は、1260年(文応元年)、 北条時頼 に提出した『立正安国論』の中で、「自界叛逆難」と「他国侵逼難」を予言していました。 参考: 立正安国論~鎌倉と日蓮~

源義朝の旧跡に建てられた鎌倉:壽福寺

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1200年(正治2年)閏2月13日、 北条政子 は、「亀谷の土地」を 栄西 に寄付します。 そして、三善善信(康信)と二階堂行光の奉行によって、 壽福寺 建立の「造作始め」が行われました。 壽福寺 「亀谷の土地」とは、 源頼朝 の父 義朝 の邸宅があった場所です。 1180年(治承4年)、鎌倉に入った 頼朝 は、この地に御所を建てることを考えますが、土地が狭く、 岡崎義実 が 義朝 の供養のために建てた祠があったことから取り止めたと伝えられています。 ※ 岡崎義実 は、 壽福寺 が建立された年の6月21日に亡くなります。 壽福寺 の参道 =十六羅漢像の開眼供養= 政子 は、佐々木定綱に託して京都で「十六羅漢像」を描かせています。 1200年(正治2年)7月6日、その「十六羅漢像」が鎌倉に届き、7月15日、 壽福寺 で「十六羅漢像」の開眼供養が行われました。導師は栄西、 政子 も参列しています。 「壽福金剛禅寺」の額 =源義朝の沼浜亭を移築= 1202年(建仁2年)2月29日、二階堂行光の奉行によって、 源義朝 の沼浜の旧宅(沼浜亭)が鎌倉に移され、 壽福寺 に寄附されました。 頼朝 は、「沼浜亭」の壊れたところを修復し、しばらくは壊さぬよう決めていましたが、 政子 の夢の中に 義朝 が現れ・・・ 「沼浜亭を壊して寺の中に建ててほしい」 と告げたのだといいます。 法勝寺 義朝 の「沼浜亭」は、逗子市沼間の 法勝寺 辺りにあったと考えられています。 沼間の鎮守 五霊神社 は、 義朝 の創建と伝えられ、 光照寺 は、義平(義朝の長子)の菩提寺といわれています。 ★ 鎌倉郡沼浜郷(逗子市沼間)の史跡巡り =壽福寺の開基は・・・?= 『吾妻鏡』には、 政子 が「亀谷の土地を栄西に寄附」し、「十六羅漢像の開眼供養」を行い、「義朝の沼浜亭を壽福寺に寄附した」と記されていることから、 政子 の開基とされているようですが・・・ 『壽福寺由緒書』には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。 源実朝 の墓があるのも不思議な事です。 源実朝の五輪塔 壽福寺に残されている源実朝

鎌倉幕府滅亡の地:東勝寺跡

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東勝寺跡 東勝寺 は、三代執権 北条泰時 によって創建され、開山には退耕行勇が迎えられたと伝えられている寺院です。 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞が 稲村ヶ崎 を突破し鎌倉に攻め入ると、 北条高時 をはじめとする北条一族は、 東勝寺 に退き自刃しました(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 ★ 鎌倉炎上~新田義貞の鎌倉攻め~ 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

釈迦入滅の日:涅槃会

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仏教の開祖釈迦は、旅先で食中毒にかかり、クシナガラ郊外の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、頭を北、顔を西に向けて横たわり入滅したと伝えられています。 その日が2月15日といわれ、釈迦の死を「涅槃」と呼びます。 仏涅槃図 釈迦の臨終を描いた仏画( 円覚寺 :国の重要文化財)。 この「仏涅槃図」は、11月の 「宝物風入」 の時に拝観できます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「仏涅槃図」には、大勢の人々や様々な動物たちの嘆き悲しんでいる様子が描かれています。 「仏涅槃図」の右上に描かれているのは、釈迦を生んで7日目で亡くなったという摩耶夫人。 上空から「生き返ることのできる霊薬の入った巾着袋」を投下するのですが、沙羅双樹の木に引っかかってしまい、残念ながら釈迦には届きませんでした。 そして・・・ 「沙羅双樹の木に引っかかってしまった霊薬入りの巾着袋を、釈迦のために鼠が取りに行ったところ、猫がその鼠を邪魔したため、釈迦が薬を飲むことができなかった」 という話も残されているようです。 多くの動物たちが描かれている「仏涅槃図」ですが、そこに猫の姿をあまり見かけることができないのは、そのためのようです。 釈迦が入滅した2月15日には、各寺院で 「涅槃会」 が行われます。 「涅槃会」 には「仏涅槃図」が掛けられ、法事が執り行われます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 涅槃会 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/nehan.htm

源頼朝の遺跡・・・永福寺跡

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永福寺跡 永福寺 は、 源頼朝 が奥州の「中尊寺」や「毛越寺」を模して建てた壮大な寺院でした。 1192年(建久3年)に二階堂が完成し、翌年には阿弥陀堂が、さらにその翌年には薬師堂が完成しています。 (参考: 永福寺跡の散策 ) これらの堂の前には、苑池が造営され、宇治の平等院鳳凰堂のような景観だったとも伝えられています。 『東関紀行』には、「二階堂永福寺はことにすぐれたる寺なり」と記されています。 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

源頼朝の遺跡・・・法華堂跡

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源頼朝の墓 源頼朝の墓 を中心とする史跡を 「法華堂跡」 といいます。 法華堂跡碑 『吾妻鏡』によれば、1189年(文治5年)、 源頼朝 は奥州征伐の折、 御所 (大倉幕府)の裏山に祈願所(持仏堂)を設けて、聖観音像を安置しています。 頼朝 は、その死後、この持仏堂に葬られたといわれ、以後「法華堂」と呼ばれたようです。 ※『吾妻鏡』には、頼朝が、持仏堂に葬られたという記載はありませんが・・・。 (参考: 源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ ) 現在、頼朝の法華堂跡には、頼朝の 供養塔(墓) が建てられています。 北条義時法華堂跡 近年、 源頼朝墓 の東隣の山の中腹から 北条義時 のものと考えられる 法華堂跡 も発掘されています。 世界文化遺産候補21の史跡 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

平治の乱・・・伊豆流罪となった源頼朝

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源頼朝 が誕生したのは、1147年(久安3年)4月8日。 父は 源義朝 :「武門の棟梁」と呼ばれた 源義家 の血を引く為義の子です。 母は 義朝 の正室で 熱田神宮 大宮司藤原季範の娘 由良御前 。 義朝 の嫡男である 頼朝 は、「武門の棟梁」という宿命をおって誕生しました。 源頼朝 1157年(保元元年)7月に起こった 「保元の乱」 では、父 義朝 が後白河上皇方について勝利を納め、その勲功により、 頼朝 も官界での出世を果たしています。 参考: 保元の乱・・・武士の台頭 ただ・・・、源氏が政界の中心にいる時代は長続きしませんでした。 平清盛 「保元の乱」 から3年後の1159年(平治元年)に 「平治の乱」 が勃発します。 13歳になっていた 頼朝 もこの合戦で初陣を果たしています。 『平家物語』によれば、 頼朝 は、先祖 源義家 以来源家に伝えられる「源太が産衣(うぶぎぬ)」を着用し、同じく「髭切(ひげきり)」を帯びていたと伝えられています。 ※「源太が産衣」は、 義家 が2歳のときに着用した鎧で、「髭切」は、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったという太刀だったといいます。 しかし、 「平治の乱」 で父 義朝 は、 平清盛 に敗れてしまいます。 頼朝 は、父 義朝 とともに東国へ逃れようとしますが、途中美濃で一行とはぐれ、平頼盛の追手に捕らえられます。 父 義朝 は、尾張国で旧臣長田忠致の裏切りに遭い殺され、兄 義平 ・ 朝長 もそれぞれ命を落としています。 参考: 平治の乱・・・明暗が分かれた平氏と源氏 平治の乱 (平治物語絵巻) 源義朝 は、平清盛の熊野参詣中を狙って三条殿に夜討ちをかけました。 捕らえられた 頼朝 は、1160年(永暦元年)2月9日、京都・六波羅へ送られます。 源氏の正嫡ですので断罪に処せられるところでしたが、 平清盛 の継母 池禅尼 の懇請で命を助けられたと伝えられています。 (参考: 平清盛と源頼朝 ) 蛭ヶ小島 そして、3月11日に伊豆国の 蛭ヶ小島 へ流されました。 頼朝 の幼い弟たちも同時に処分され、希義は土佐国介良荘に流罪、今若(全成)は 醍醐寺 にて出家、乙若(義円)は 園城寺 にて出