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豊後国に上陸した源範頼軍と葦屋浦の戦い

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一ノ谷の戦い で鎌倉軍に敗れた平家軍は、陣営を二箇所に分け、 平宗盛 が讃岐国の 屋島 に陣営を築き、平知盛が彦島に陣を布いていました。 『吾妻鏡』によると・・・ 1185年(元暦2年)1月12日、 源範頼 が率いる平家追討軍は、周防国から赤間関へ到着し、彦島に拠る平家を攻撃しようとしますが・・・ 食料も船もなく侍所の別当 和田義盛 などは密かに鎌倉に帰ろうという状況だったようです。 数日間、逗留した後、豊後の臼杵惟隆とその弟の緒方惟栄から船を徴発することとし、周防国へ戻ります。 そして、1月26日、臼杵惟隆と緒方惟栄が八十二艘の軍船を献上し、周防の宇佐那木遠隆が食料を献上したことで、範頼軍は豊後国へ渡ります。 従ったのは、 北条義時 ・ 足利義兼 ・ 小山朝政 ・小山宗政・ 小山朝光 ・武田有義・ 中原親能 ・ 千葉常胤 ・千葉常秀・ 下河辺行平 ・下河辺政能・浅沼広縄・ 三浦義澄 ・ 三浦義村 ・ 八田知家 ・八田知重・ 葛西清重 ・ 渋谷重国 ・渋谷高重・比企朝宗・ 比企能員 ・ 和田義盛 ・和田宗実・和田義胤・大多和義成・安西景益・安西明景・大河戸広行・大河戸三郎・中条家長・ 加藤景廉 ・ 工藤祐経 ・工藤祐茂・ 天野遠景 ・一品房昌寛・ 土佐房昌俊 ・小野寺道綱。 最年長の 千葉常胤 は老いをものともせず風波を凌いで渡り、 加藤景廉 は病の身を忘れて従いました。 食料がなくなっていた 下河辺行平 は、甲冑を手放して小船を買い、一番に船を進めました。 この行平の行動に対して、 「甲冑姿で大将の船に乗り戦場へ向かうべき」 と批判する者もいましたが、行平は、 「もとより命を惜しんではいないから、甲冑を着けていなくても、進退自由の船に乗って、一番乗りを目指している」 と主張したのだといいます。 三浦義澄 は、周防国の守備に当たるよう命じられますが、それでは一番乗りの勲功が得られないと断ります。 しかし、説得されて周防国に駐屯することになったのだとか。 最初に豊後国に上陸したのは、 北条義時 ・ 下河辺行平 ・ 渋谷重国 ・品川清実ら。 2月1日、筑前国の葦屋浦で平家軍の原田種直とその子賀摩種益らの攻撃を受けますが、 下河辺行平 ・ 渋谷重国 らが応戦し、行平が美気種敦を討ち取っています。

下河辺行平~頼朝から源氏一門に準ずる扱いを受けた武将~

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下河辺行平 は、下総国下河辺荘の荘司だった武将。 下野国小山荘を本拠とした小山氏の一族で、 小山政光 は伯父にあたります。 弓の名手だった行平は、流鏑馬・笠懸・弓始などの射手に選ばれ、 源頼朝 からは「日本無双の弓取」と称賛されました。 頼朝の嫡男 頼家 の弓の師範でもあったのだといいます。 1195年(建久6年)11月6日、頼朝から准門葉(源氏一門に準ずる)という覚書を与えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条義時追討の官宣旨案~承久の乱~

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北条義時追討の官宣旨案 京都の小松家に伝来した 北条義時 追討を命ずる文書(複製)。 『承久記』によると・・・ 後鳥羽上皇 は1221年(承久3年)5月14日、鳥羽の城南院(城南寺)の流鏑馬のためと称して、在京の武士・畿内の兵士らを高陽院殿(里内裏)に集めました。 藤原清範の交名(文書)によると、その数は一千五百騎余りになったのだといいます。 翌日、後鳥羽上皇は 北条義時追討の宣旨 を下しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 「流鏑馬」 ・・・ その初見は、藤原宗忠の日記『中右記』で、1096年(永長元年)4月29日と5月2日に白河上皇が鳥羽離宮の馬場殿で流鏑馬を観覧したという記事。 城南宮 その後、流鏑馬は 城南宮 (城南寺明神)の祭礼行事として定着。 流鏑馬を北面の武士に勤めさせることで院側近の勢力結集という目的があったのだと考えられ、のちに 源頼朝 が 鶴岡八幡宮 の 放生会 で始めた 流鏑馬 も軍事力の結集が目的であったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 京都文化博物館では、承久の乱を描いた「承久記絵巻」の特別展が開催されています。 期間:2021/4/6(火)~5/23(日) 時間:10:00~18:00 休館:月曜日 (ただし5/3は開館) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条政子の言葉 は、動揺する御家人を勇気づけ、大将軍 北条泰時 の出陣で多くの御家人が参じた。 宇治橋 と 瀬田橋 は京都防衛上の要衝。 源範頼 と 源義経 の 木曽義仲 追討では、範頼が瀬田を義経が宇治を攻めた。 承久の乱 では、 北条時房 が瀬田を 北条泰時 が宇治を攻めて入京した。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

京都:兒水不動明王堂

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兒水不動明王堂 は、 源実朝 の妻 坊門姫 が実朝の菩提を弔うために創建された 大通寺 の境内にあったのだといいます。 大通寺 は1912年(明治45年)の東海道線の移設工事によって移転しますが、不動明王堂は残されたのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

京都:六孫王神社

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六孫王神社 は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、六孫王と呼ばれた源経基を祭神としている神社。 経基の子満仲は多田源氏の祖。 満仲の子の 頼光 は摂津源氏の祖。 同じく 頼信 は河内源氏の祖。 そして、 源頼朝 は河内源氏の七代目。 誕生水弁財天 満仲誕生時に琵琶湖の竹生島より勧請したという弁財天。 六孫王神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。