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鶴岡八幡宮の神宮寺と壽福寺の薬師如来像

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1208年(承元2年)4月25日、 鶴岡八幡宮 の境内に「神宮寺」を建立することが決定され、「地曳の式」が行われました。 惣奉行は 三善善信 。 ※「神宮寺」とは、神社に付属して建てられた仏教寺院のこと。 7月5日、神宮寺の上棟式が行われ、 北条義時 ・ 北条時房 ・ 大江広元 らが臨席し、大工たちには禄が与えられました。 8月16日には、 源実朝 が神宮寺を 流鏑馬馬場 の桟敷から遙拝し、神馬を奉納しています。 同日、 北条政子 が参拝しています。 ※この年、 実朝 は疱瘡を患い、以後3年間、 鶴岡八幡宮 に参詣していません。 12月12日、完成した神宮寺に本尊薬師如来像が安置されます。 実朝 も16日に、この薬師如来像を拝見しました。 17日には、薬師如来像の開眼供養が行われ、 北条義時 ・ 大江広元 が参列しています。 銅造薬師如来像 鎌倉国宝館 に寄託されている 壽福寺 の薬師如来像。 この像が神宮寺が建立されたときに安置された薬師如来像であるかどうかはわかりませんが、 北条政子 は、1211年(建暦元年)11月16に薬師三尊像の開眼供養を行い、神宮寺に安置していますので、新たに造立されたのかと思われます。 神宮寺の薬師如来像は、明治の神仏分離の際に 壽福寺 に移されました。 (参考: 神仏分離と鶴岡八幡宮 ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 神宮寺は、1280年(弘安3年)10月28日焼失しています。 薬師如来像の表面が荒れているのは、火事にあったからと考えられています。 薬師如来像の脇侍である日光・月光菩薩像は、それ以前に盗難にあってしまったそうです。 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

鶴岡八幡宮の五重塔

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1189年(文治5年)、 源頼朝 は亡母 由良御前 の供養のため、また、 鶴岡八幡宮 の伽藍を整備するために塔を建て始めます。 『吾妻鏡』には、3月13日に「塔の九輪」を上げたことが記されています。 この塔は、 五重塔 であったと考えられているようです。 鶴岡八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~五重塔の供養~ 五重塔は、5月8日には朱色に塗られ、19日には五重塔の供養の日を6月9日と決めました。 ところが・・・ 5月22日、 奥州 から伝令が到着し、閏4月30日に 源義経 が自刃したことが伝えられます。 すぐに「穢れが生じた」という理由で、「供養の日を遅らせる」旨を京都へ報告するのですが・・・ 事は次々に進んでいってしまいます。 5月25日、新藤中納言兼光が起草し、堀河大納言忠親が清書した供養の願文が到着。 6月3日、天台座主全玄の代官中納言法橋観性が供養の導師として到着。 そして、6月5日、大江公朝が後白河法皇の使者として到着。 翌日早朝には、後白河法皇から下された品が幕府に届けられます。 供養の日を遅らせたいと考えていた 頼朝 でしたが、こういう状況ですので、6月7日には、予定どおりに供養の式典を行うことを決めています。 義経 の死から30日が経過しているので、「直接内陣に入らなければ問題ない」ということになったからだといいます。 ただし、 義経 の首は鎌倉に入っては困るので、運び入れるのを延期させています。 (参考: 治承・寿永の乱の英雄源義経 ) こうして、6月9日に五重塔の供養が行われました。 供養の導師は法橋観性、呪願師は別当円暁(「呪願」(じゅがん)とは、施主の願いを述べること。)。 頼朝 も出席しますが、宮寺に近づくのは遠慮して、馬場に桟敷をつくって供養を見守ったということです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~建久2年の大火~ 鶴岡八幡宮の炎上 1191年(建久2年)3月4日未明、 小町大路 で火災が発生します。 そして、火の粉が五重塔に移り、 鶴岡八幡宮 は灰燼と帰してしまいます。 その後すぐに 鶴岡八幡宮 は再建され、11月21日には「遷宮の儀」が執り行われています。 (参考: 御鎮座記念祭 ) ただ、五重塔の再

大庭御厨と大庭氏

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「御厨」(みくりや)とは、有力な神社の荘園のことです。 鎌倉権五郎景政は、1104年(長治元年)頃、先祖から受け継いだという大庭荘を開発します。 そして、その土地は伊勢神宮に寄進され相模国最大の御厨となりました。 (鎌倉権五郎景政・・・参考: 御霊神社(坂ノ下) ) 皇大神宮 (藤沢市鵠沼) 大庭御厨の総鎮守として尊崇されていました。 https://www.yoritomo-japan.com/kotaijingu-kugenuma.htm 藤沢市には 「大庭」 の地名が残されています。 ~大庭御厨の下司大庭氏~ 鎌倉権五郎景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったともいわれていますが、諸説あって定かではないようです。 ~源義朝の大庭御厨への乱入~ 源義朝 は、先祖から伝わる鎌倉を得ていましたが、1144年(天養元年)、俄に鎌倉郡内だと称して大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行っています。 (当時の大庭御厨の現地管理者(下司)は大庭景宗でした。) 翌年、朝廷は 義朝 への処分を下していますが、その後の経緯は不明のようです。 ~大庭景義と景親~ 大庭景義・景親の兄弟は、鎌倉権五郎景政の孫景忠の子、あるいは、景宗の子といわれています。実際がどのような家系なのかは諸説あって定かではありません(参考: 相模の武将「大庭氏」 )。 1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景義・景親の兄弟は 源義朝 に従っています。このとき、兄景義が源為朝(義朝の弟)の矢を足に受けて重傷を負ったことから、家督は弟景親に譲られたものと考えられています(参考: 神明大神宮(懐島城址) )。 1159年(平治元年)、平治の乱で 源義朝 が敗れると、大庭景親は平清盛の家人となります。 景親は、 大庭城 を拠点としていたと伝えられています。 神明大神宮 ~源頼朝の挙兵と大庭兄弟~ 1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵すると兄大庭景義は頼朝に付きます。 一方、景親は頼朝に敵対し、 石橋山の合戦 では頼朝を破りますが、その後捕らえられ片瀬で処刑されました。 鎌倉手帳 http:/

大倉薬師堂~北条義時と戌神将の伝説~

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覚園寺 二代執権 北条義時 は、戌神将の夢のお告げによって、大倉郷の南の山の麓に御堂を建立します。 そして、1218年(建保6年)12月2日、落成の供養が行われました。 この御堂(大倉薬師堂)が 覚園寺 の前身となります。 義時 は、日頃より薬師如来を信仰し、十二神将を崇めていたといいます。 『吾妻鏡』によれば・・・ 1218年(建保6年)7月8日、将軍 源実朝 の 鶴岡八幡宮 参拝に従っていた 義時 は、晩になって屋敷に戻ります。 すると・・・ 休息していた 義時 の夢の中に、薬師如来につき従う十二神将のうちの戌神将が現れます。 そして・・・ 「今年の将軍の参拝は無事であったが、 来年の拝賀の日には供奉しないように」 と告げたのだといいます。 (※翌年正月27日、 源実朝 の右大臣拝賀の式が行われます。) 夢から覚めた 義時 は、このお告げをどのように考えてよいか判断しかねたようですが・・・ 翌日、大倉郷の南の山際に御堂を建立して、薬師如来像を安置するように命じます。 これに対し、周囲の者は・・・ 「今年は将軍 源実朝 卿のご参詣によって、京からも多数の客人が集まりました。 その間、御家人や土地の者は、多くの財産を費やしています。 その嘆き悲しみがおさまらないうちに、大きな御堂を建立することは、 民を苦しめることになります」 と諫めます。 しかし、 義時 は、 「これは個人の身の安全を祈願するものであるので、 百姓に負担させるわけにはいかない」 といって造営を開始したといいます。 覚園寺の薬師如来像 こうして完成した大倉薬師堂は、1218年(建保6年)12月2日に落成式が行われます。 導師は、 退耕行勇 。 本尊の薬師如来は、 運慶 によって彫られたものだったと伝えられています。 同日、 源実朝 が右大臣に任ぜられています。 📎昇進を重ねた源実朝 ) そして新年を迎えます。 1月27日には 鶴岡八幡宮 で 源実朝 の右大臣拝賀式が行われました。 しかし、剣を持って従っていた 義時 は、 鶴岡八幡宮 の楼門に入るときに気分が悪くなり、役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰ります。 その後、 実朝 は甥の公暁によ

初詣・・・湘南三社詣(鶴岡八幡宮・鎌倉宮・江島神社)

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「三社詣」(三社参り)とは、文字通り三つの神社に詣でることです。 源頼朝 も 伊豆山神社 ・箱根神社・ 三嶋大社 の三社詣でを行っていました。 湘南三社詣 深い意味はよくわからないのですが、 鶴岡八幡宮 に参拝した際には、 鎌倉宮 、 江島神社 を回れば、本当の意味での参宮を勤めたことになるといわれているようです。 鶴岡八幡宮の初詣 ★ 鶴岡八幡宮の初詣と破魔矢 ★ 鶴岡八幡宮 は、全国の初詣ランキングでベストテンに入る神社。 源頼朝 の創建です。 授与される「破魔矢」は、 頼朝  の先祖 源頼義 が納めた弓矢にちなむもので人気があります。 神苑ぼたん庭園 では、 「正月ぼたん」 が公開されます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉宮の初詣 ★ 鎌倉宮の初詣と獅子頭 ★ 鎌倉宮 は、鎌倉で悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王を祀る神社。明治天皇によって創建されました。 授与される「獅子頭」は、護良親王が戦のときに身につけたというもので、「厄除け・幸運招来」のお守りです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 江の島の初詣 ★ 江の島の初詣 ★ 江の島 の中には、 源頼朝 、 源実朝 、 北条時政 などにゆかりのある 江島神社 があります。 源頼朝 は 江の島  に弁財天を勧請しました。 源実朝  は辺津宮を創建しています。 北条時政  には 神龍伝説 が残されています。 江の島の 弁財天 は日本三大弁財天の一つ。 ドラマ「坂の上の雲」で知られる児玉源太郎を祀る 児玉神社 もあります。 江の島サムエル・コッキング苑 では ウインターチューリップ を見ることができます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「三社詣」を当然のように行う地域もあれば、そんな事があるのすら知らないという地域もあるかと思います。  特に、鎌倉・江ノ島は人気のある場所ですので、「三社詣」ということが言われるようになったのかもしれません。  ただ、 鶴岡八幡宮 の破魔矢を持って、

妙本寺の鬼子母神石像

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妙本寺 の 祖師堂 裏のやぐらの中には、鬼子母神の石像が祀られています。 鬼子母神は法華経の守護神ということで、日蓮宗の寺院には多く祀られています。 (参考: 子育鬼子母神祭 (大寶寺) 祖師堂

鎌倉コロッケ

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駿河屋本舗の 「鎌倉コロッケ」 は 「かまくら推奨品」 に認定されています。 江ノ電鎌倉駅 構内の売店 湘南 江ノ島 の味「しらすコロッケ」は人気です。

鎌倉長谷寺の寺まんじゅう

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長谷寺 限定の 「寺まんじゅう」 。 肉や魚を使用しない野菜だけのまんじゅうです。 これがかなり美味い! 「あんまん」もあるようです。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:極楽寺のサザンカとツワブキ2011/11/27

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極楽寺 山門前の サザンカ が咲き始めました。 山門を入ると参道にはツワブキが咲いています。 極楽寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136gokurakuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

長谷川海太郎の墓~妙本寺~

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妙本寺 の 祖師堂 の右側には、小説家長谷川海太郎の墓があります。 長谷川海太郎は、林不忘・牧逸馬・谷譲次という3つのペンネームで活躍しました。 長谷川海太郎は、1926年(大正15年)、材木座の 向福寺 で新婚生活を送っています。 その後、鎌倉を転々として、『丹下左膳』(林不忘)や『新巌窟王』(谷譲次)を書きました。 1935年(昭和10年)6月29日、鎌倉の自宅で亡くなっています。35歳という若さでした。 鎌倉の寺院と文学者 https://www.yoritomo-japan.com/page129-5.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

鎌倉文学館の秋2011/11/27

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鎌倉文学館 加賀百万石の前田家の別邸。 招鶴洞 このトンネルを通り抜けると 鎌倉文学館 。 「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも」 源実朝 が詠んだ歌です(参考: 『金槐和歌集』 )。 左: 「人丸の後の歌よみ誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝」 (正岡子規) 右: 「鎌倉を生きて出でけん初鰹」 (松尾芭蕉・参考: 鎌倉の鰹 ) 邸内からは 由比ヶ浜 の海が一望 庭園にはバラ園があります。春は5・6月、秋は10・11月が見頃です。 現在、「鎌倉」、「化粧坂」、「静の舞」、「星月夜」、「流鏑馬」、「禅」、「春の雪」、「大姫」など、およそ180種、200株のバラが植えられています。 種撒く人の碑 皇帝ダリア 春の雪 三島由紀夫の小説『春の雪』にちなんで命名されたバラ。 「春の雪」の傍らにはリンドウが・・・ スダジイ 鎌倉は照葉樹林帯。 シイは、照葉樹林を代表する樹木の一つです。 唯一きれいに染まった紅葉。 長楽寺跡碑 現在、 鎌倉文学館 のある場所には、 北条政子 が 源頼朝 の菩提を弔うための 長楽寺 があったといいます。 1333年(元弘3年)、 新田義貞 の鎌倉攻めの兵火に遭い焼失したため、同じく焼失した善導寺跡へ移されたということです(現在の大町の 安養院 )。 長楽寺跡碑 は、 鎌倉文学館 の入口にあります。 「江ノ島鎌倉フリーパス」 や 「のりおりくん」 を提示すると50円割引の特典があります。 鎌倉文学館 https://www.yoritomo-japan.com/bungakukan.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html