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当麻曼荼羅縁起絵巻と中将姫の伝説

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光明寺 に伝わる 「当麻曼荼羅縁起絵巻」 2巻は、中将姫が蓮糸で織ったという「浄土曼荼羅図」にまつわる物語が描かれています。 当麻曼荼羅縁起絵巻 の一部 この絵巻は 光明寺 の大旦那内藤家より寄進されたもので国宝。 現在は、 鎌倉国宝館 に寄託されています。 さて、 当麻寺の曼荼羅を織り上げたという中将姫とは・・・ 左大臣藤原豊成(横佩の大臣(よこはぎのおとど))の娘といわれる伝説上の姫です。 幼くして母紫の前を亡くし、継母による虐待をうけながら育ちます。 全国各地に継母から逃れてきた中将姫の伝説が残されているようです。 中将姫の祠 藤沢市の用田にも中将姫の伝説が残されています。 ~中将姫と当麻寺の大曼荼羅の伝説~ 中将姫は、763年(天平宝字7年)に尼となり、「生身の阿弥陀如来を拝みたい」として祈願したといいます。 そして・・・ お告げによって百駄に近い蓮茎から糸をとり、それを染めて一丈五尺の大曼荼羅を織り上げます。 文献によって物語の内容が異なるようですが、阿弥陀如来と観音菩薩が比丘尼となって現れ、姫を助けて曼荼羅を織り上げる様子は同じだといいます。 願いを成就させた中将姫は、その後『称讃浄土経』千巻の写経に明け暮れ、775年(宝亀6年)に29歳でこの世を去ったということです。 寿昌寺 継母から逃れ、中条に居着いた中将姫は、見つかるのを恐れて面を付けていたのだとか。 その面は 「中将姫の祠」 の近くにある寿昌寺に預けられていましたが、住職がうなされるので、 寒川神社 (用田)に納めたのだそうで・・・ ただし、現存はしないそうです。 光明寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135komyoji.htm

ハクウンボク(白雲木)~浄智寺の沙羅双樹~

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釈迦は 沙羅双樹 の木の下で最期の時を迎えたといわれています。 涅槃図 に描かれている木が 沙羅双樹 。 日本では「ナツツバキ」を沙羅双樹とする場合が多いようですが、「ハクウンボク」を沙羅双樹とする場合もあるようです。 沙羅双樹は『平家物語』で、 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす」 と語られています。 浄智寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138jyotiji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

梶原景時の変

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梶原景時邸跡 梶原景時 は源頼朝に仕えた武将で、相模国一の宮を領していました。 鎌倉の邸宅は十二所にあったと伝えられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page042kajiwaratei.htm ~一万遍の南無阿弥陀仏~ 『吾妻鏡』の1199年(正治元年)10月25日の条によると・・・ 将軍御所の侍所では、 結城朝光が夢のお告げを受けたとして、正月に亡くなった頼朝のために、「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧めています。 そして、皆で念仏・・・「南無阿弥陀仏」を唱和しました そのとき朝光は「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」と語ったのだとか。 頼朝の近くに仕えていた朝光の言葉に皆が涙を流したといいます。 結城朝光は、小山政光と 源頼朝 の乳母を務めた寒河尼との間の子です。頼朝は特別な感情を持って朝光を可愛がっていたことでしょう(一説には、頼朝と寒河尼の娘との間に生まれた子ともいわれています。)。 ~梶原景時の讒言~ 『吾妻鏡』の1199年(正治元年)10月27日の条によると・・・ 阿波局が 「 梶原景時 の讒言で、あなたは殺されてしまうかもしれません。」と結城朝光に告げたといいます。 ※阿波局 北条時政 の娘で、 北条政子 の妹、 源頼朝 の弟 阿野全成 の妻、千幡( 源実朝 )の乳母でした。 その理由は、 朝光が「一万遍の念仏」を唱えた日に、「忠臣は二君に仕えず」と述べたことが現将軍に敵対していると捉えられたからのようです。 驚いた朝光は、親交のあった 三浦義村 に相談します。 朝光は義村に、「頼朝公より受けた御恩を思うと須弥山の頂より高いもので、むかしを慕うあまりに「忠臣は二君に仕えず」と言った。」と釈明しています。 義村は、「事は重大なので、宿老たちに相談すべきだ。」と言ったそうです。 そして、使いを差し向けたところ、さっそく 和田義盛 や 安達盛長 などが集まり、味方の署名を募って景時を訴えることとなりました。 訴状は、文章がうまいという評判の中原仲業が担当することとなりましたが、仲業はかねてより景時に遺恨を抱いていたといいます。

田代観音と呼ばれる安養院~鎌倉~

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ツツジの名所として知られる 安養院 は、 板東観音巡礼 ・ 鎌倉観音巡礼 の第三番札所となっています。 安養院 ~長楽寺と善導寺の合寺~ 北条政子 は、1225(嘉禄元年)、 源頼朝 の菩提を弔うため、 笹目に願行を開山とした 長楽寺 を建立しますが、1333年(元弘3年)、 鎌倉幕府の滅亡 時の兵火によって焼けてしまったといいます。 そして、同じく兵火によって焼かれてしまった善導寺跡(現在地)へ移されました。 長楽寺跡碑 鎌倉文学館 の入口に建てられている石碑です。 ~三ヶ寺合寺~ 1680年(延宝8年)、 安養院 は全焼してしまい、再建の際には、比企ヶ谷にあった「田代観音堂」(白花山普門院田代寺)が移されます。 「田代観音堂」は、 源頼朝 に仕えていた 田代信綱 が建てた堂で、本尊は、現在、 安養院 の本堂に安置されている千手観音像でした。 というわけで・・・ 長楽寺・善導寺・田代寺の三寺が合わさったのが現在の 安養院 となります(「安養院」という名称は北条政子の法号からきています。)。 千手観音菩薩像 (手前は阿弥陀如来像) 安養院 の千手観音は「田代観音」とも呼ばれています。 田代信綱 が守本尊としていた「千手観音画像」が胎内に納められていることからそう呼ばれているそうです。 ~室町時代の医師田代三喜~ 田代信綱 の子孫に田代三喜がいます。 三喜は、 円覚寺 内の江春庵に住んでいたようですが、1509年(永正6年)、古河公方足利成氏に招かれ、古河公方の侍医になったといいます。 信綱の子孫は医術を業としていたようです。信綱自身も頼朝軍の軍医だったのかもしれません。 安養院 https://www.yoritomo-japan.com/page126anyoin.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源太塚~梶原景季:仏行寺~

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仏行寺の源太塚 笛田の 仏行寺 の裏山にある「源太塚」には、 梶原景時 の子 景季 の片腕が葬られていると伝えられています。 源頼朝 が亡くなった1199年(正治元年)、鎌倉幕府の有力御家人 梶原景時 は、結城朝光を 源頼家 に讒言したことから、御家人66人から弾劾に遭います。 鎌倉を追放された 景時 は、翌年、京へ向けて出発しますが、 駿河国清見関 で在地武士と合戦となり、子の 景季 とともに討死しました(参考: 梶原景時の変 )。 仏行寺 は ツツジ の名所として知られています。 源太塚もツツジで囲まれています。 仏行寺 景季 の妻信夫(しのぶ)は、 景季 が死ぬと悲しみのあまり自害したと伝えられています。 仏行寺 は、 信夫の霊を慰めるために村人によって建てられた寺であるといいます。 https://www.yoritomo-japan.com/page139butugyoji.htm しのぶ塚 鎌倉山 の「しのぶ塚」は、源太塚と向き合って建てられているといいます。 ~名馬「磨墨」と宇治川の先陣争い~ 宇治川の戦いに参加した梶原 梶原景季 と 佐々木高綱 は、ともに 頼朝 から賜った名馬に乗っていました。 景季 の馬は「磨墨」(するすみ)、 高綱 の馬は「生食」(いけづき)です。 名馬に乗った二人の武将は、宇治川を渡る際に先陣争いをしています。その結果は 佐々木高綱 が先陣を切っています。 (参考: 宇治川の先陣争い~高綱の生食と景季の磨墨~ ) 東京大田区の万福寺の「磨墨」像 (万福寺は梶原景時の菩提寺) https://www.yoritomo-japan.com/manfukuji.htm 仏行寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page139butugyoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

義経の伝説と亀井神社~藤沢:亀井野~

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平氏を壇ノ浦に滅ぼした英雄 源義経 は、1185年(文治元年)5月7日、捕らえた平氏の大将平宗盛を護送し、鎌倉へ凱旋するため京を発ちます。 『吾妻鏡』によると、同日、鎌倉には 義経 の家臣亀井六郎重清が参着し、 源頼朝 に「謀叛の心がない」ことの起請文を提出しています。 しかし・・・ 5月15日、 義経 の一行は酒匂に到着しますが、 北条時政 が護送してきた平宗盛を引き取り、義経は鎌倉に入ることを禁じられました。 5月24日、 義経 は、滞在した腰越の 満福寺 から、 大江広元 宛の文を出しました( 「腰越状」 )。 広元を通じて 頼朝 の許しを得ようとした 義経 でしたが、受け入れられず、翌6月9日、再び平宗盛を護送して京へ戻ります。 亀井神社 (藤沢市亀井野) 源義経の家臣亀井六郎重清が崇敬したと伝えられる神社です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 藤沢市の北、大和市鶴間にある 公所浅間神社 には、失意のうちに京へ戻る義経にまつわる伝説が残されているようです。 1189年(文治5年)、 源義経 は 衣川館 で自刃しますが、亀井重清も兄重家とともに自刃して果てたと伝えられています。 藤沢市亀井野は、神奈川県の畑作の中心的な役割を果たしている重要な地です。 渋谷重国 の領していた土地と思われます。 すぐ隣は大庭御厨です(参考: 大庭城址 )。 この辺り一帯は、「一所懸命」の中世の武将が開発した土地なのでしょうね。 そして、亀井神社を崇敬したという亀井六郎重清は・・・ 「亀井野」という地名と「亀井」という氏には何らかの関係があるものと思われます。 亀井神社 https://www.yoritomo-japan.com/kameijinjya-fujisawa.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

恋愛成就・縁結びのご利益~鎌倉~

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鶴岡八幡宮旗上弁財天社の政子石 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page041hataagebenzaiten.htm 旗上弁財天社 の裏に置かれた「政子石」は、「姫石」とも呼ばれている縁結び・夫婦円満の霊能があるとされている石です。 安養院の日限地蔵 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page126anyoin.htm 決められた日数内に願い事を叶えてくれるというお地蔵さま。 源頼朝 と 北条政子 が結ばれたことにちなみ、恋愛にご利益があるといわれています( 鎌倉二十四地蔵 )。 また、 安養院 のご本尊千手観音は、 政子 が祈願して 頼朝 と結ばれたとされる像で、「良縁観音」と呼ばれています( 鎌倉三十三観音 )。 成就院の不動明王 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136jyojyuin.htm 成就院 の本尊不動明王は縁結びにご利益のあるお不動さまとして親しまれています。 本尊の御分身が本堂前に置かれています。 縁結び不動明王と龍の手水・・・鎌倉:成就院 http://okadosblog.blogspot.com/2012/01/blog-post_03.html 長谷寺弁天窟の愛慶童子 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136hase-benten.htm 長谷寺 の 弁天窟 は、弘法大師の旧跡。洞窟内には弁財天と十六童子が刻まれています。 十六童子のうちの愛慶童子は、観音菩薩の化身で恋愛の神です。 佐助稲荷神社の縁結十一面観音 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page137sasukeinari.htm 良縁に結ばれず出家した尼赤松幸運が、若い男女に良縁があるよう彫った十一面観音です。 5月18日に開帳されます。 縁結び十一面観音~佐助稲荷神社~ http://okadosblog.blogspot.com/2011/05/blog-post_27.html 葛原岡神社の縁結び石 http://www8.plala.or.jp/bosa

鎌倉市農協連即売所2011/05/09

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鎌倉市農協連即売所 では、 旧鎌倉郡の農家の皆さんが新鮮な野菜を売っています。 「鎌倉ブランド」のマークが付いた野菜は、鎌倉の地場野菜の証明です。 鎌倉市農協連即売所 https://www.yoritomo-japan.com/sangyo/renbai.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html