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徳川家康の次男・於義丸(結城秀康)

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結城秀康像 (福井城址) 徳川家康 の次男は、 お万の方 が産んだ 於義丸 。 はじめは家康にも認知されず、 源範頼 の子孫・中村源左衛門正吉の屋敷で育ちました。 小牧・長久手の戦い 後、人質として豊臣秀吉の養子となり、元服後に秀康と名乗ります。 小田原征伐 後、家康が関東移封となり 江戸城 に入ると、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継ぎます。 結城氏は、 源頼朝 に仕えた 結城朝光 が祖。 関ヶ原の戦い 後、北ノ庄を与えられた秀康は 福井城 を築城。 秀康が松平に服した後、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉の面掛行列~鶴岡八幡宮・円覚寺・八雲神社・御霊神社~

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鶴岡八幡宮祭礼行列之図 「鶴岡八幡宮祭礼行列之図」 は、江戸時代の 鶴岡八幡宮 の祭礼行列の様子を描いたもの。 その中には面掛行列も登場します。 1709年(宝永6年)、 鶴岡八幡宮 の祭礼を見物した紀伊国屋文左衛門は『鎌倉三五記』に行列の順序をこう記しているようです。 陵王・小飛出・釣眼・大べしみ・しかみ・福禄寿・末社・うそふき・おふく・天女。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 円覚寺洪鐘祭絵巻 「円覚寺洪鐘祭絵巻」 (明治35年)は、61年目ごと(60年に一度)に行われる 円覚寺 の 「洪鐘祭」 (おおがねまつり)の様子を描いたもの。 洪鐘祭の祭礼行列には、かつて 八雲神社 (山ノ内)の 例大祭 で行われていた面掛行列も参加していたようです。 八雲神社 の面掛行列は、前回の 洪鐘祭 を最後に行われなくなってしまったようですが、もしかすると、次回の洪鐘祭で復活するのかも。 八雲神社の面 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 御霊神社の面掛行列 御霊神社 (坂ノ下)の 面掛行列 は、 鶴岡八幡宮 の放生会で行われていた面掛行列に倣ったものといわています。 面掛衆の面は、爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男(ひょっとこ)・福禄・阿亀・女(とりあげ)の十面。 面掛行列にまつわる 源頼朝 の伝説によると・・・ 頼朝は非人頭の娘を身籠らせてしまします。 娘のもとへと通う頼朝の警護は非人たちが行ったそうです。 ただし、身分の低い者だったので、面を着けていたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

無実の罪を晴らす神・菅原道真~荏柄天神社・北野天満宮~

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荏柄天神社 菅原道真 は無実の罪で大宰府に左遷され、同地で没します。 その後、都で起きた天変地異が道真の祟りと恐れられ、神として祀るため 北野天満宮 が創建されました。 そのため、天神は「冤罪から救う神」として信仰されるようになります。 荏柄天神社 では・・・ 謀反の罪により捕えられた渋川兼守は、悲しみのあまり和歌十首を奉納し、それを 源実朝 が見たことで無罪となっています( 和田合戦 )。 子の 冷泉為相 の正当性を訴えるため鎌倉に下向した 阿仏尼 は、百首の和歌を奉納して勝訴しています。 北野天満宮 947年(天暦元年)、多治比文子、近江国比良宮の神主・神良種、北野の朝日寺の僧最珍らが道真を祀る社を建てたのが北野天満宮の始まり。 987年(永延元年)には、 一条天皇 の勅使が派遣され、「北野天満宮天神」の神号が与えられました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

円覚寺洪鐘祭絵巻

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『円覚寺洪鐘祭絵巻』は、山ノ内下町の栗田要造(17歳)が1901年(明治34年)4月1日から3日に開催された洪鐘祭の行列を描いたもの。 江ノ島唐人行列 唐人囃子 山ノ内八雲神社の榊と 円覚寺の僧 山ノ内八雲神社の面掛行列 山ノ内伶人奏楽 宝珠・宝袋造り物と 神花稚児行列 山ノ内八雲神社神輿渡御 下町の宝珠花車 下町の東京芸者による 踊台と通り囃子 仲町の洪鐘花車 上町の大太鼓花車と 通り囃子 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日