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後鳥羽天皇宸翰御手印置文~後鳥羽上皇の遺勅:水無瀬神宮~

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水無瀬神宮 に伝わる「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」 (ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ)は、 承久の乱 で隠岐に流され、1239年(延応元年)2月22日に崩御した 後鳥羽上皇 の遺言。 崩御の13日前に水無瀬親成(藤原親成)に書き残したもの。 摂津の水無瀬・井口の両荘を与えることや、自身の菩提を弔うことなどが記されています。 水無瀬神宮 の前身となる水無瀬御影堂は、この遺言に基づいて建立されたのだといいます。 水無瀬神宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条政子の頭髪曼荼羅~伊豆山神社~

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『吾妻鏡』によると・・・ 1200年(正治2年)1月13日、 法華堂 では 源頼朝 の一周忌が営まれました。 北条時政 をはじめとする多くの御家人が参列。 導師は 栄西 。 堂内には、絵像の釈迦三尊と梵字の曼荼羅が掲げられました。 梵字の曼荼羅は、 北条政子 が自らの髪の毛を縫って作ったものだったそうです。 伝北条政子頭髪曼荼羅 頼朝と政子が信仰した 伊豆山神社 には、 「伝北条政子頭髪曼荼羅」 が伝えられています。 伊豆山神社 にある伊豆山郷土資料館では、2022年7月28日(木曜日)から8月30日(火曜日)まで、「伝北条政子頭髪曼荼羅」が公開されています。 拝観時間 9:00から16:00 水曜日は休館 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条泰時が伊豆国で行った徳政

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『吾妻鏡』によると・・・ 1201年(建仁元年)8月11日、台風の襲来で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、 鶴岡八幡宮寺 の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けてしまいます。 下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだといいます。 8月23日にも台風が襲来。 二度の台風で、五穀は全滅してしまいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条氏の領国 伊豆国 では・・・ 前年も田畑が損壊して収穫が少なく、飢饉になっていました。 春には、種まきができない状況となり、村人らは連署状を提出して「種もみ五十石」の貸付を受けていました。 秋には返すという約束でしたが、8月に台風が襲来し、国中で不作となってしまいます。 米を返せない人々は、逃げてしまおうと話し合っていたのだといいます。 それを耳にした 北条泰時 は、こうした惨状を救うため、10月3日、 伊豆国 の北条へ下向。 連署状に署名した者を呼び集めて、その目の前で証文を焼き捨て、「豊作になっても、貸した米を返さなくてよい」と言い聞かせました。 さらに酒や飯を出し、一人あたり米一斗を与えています。 人々は、それらを有難く頂戴し、喜びながら、あるいは、涙を流しながら、泰時の子孫繁栄を祈り、帰って行ったのだといいます。 酒や米は、予め代官に用意させていたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵

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大原陵 は、 承久の乱 で隠岐に流されて1239年(延応元年)2月22日に崩御した 後鳥羽上皇 と、 同じく佐渡に流されて1242年(仁治3年)9月12日に崩御した順徳上皇の陵墓。 法華堂 後鳥羽上皇 の遺骨は、 水無瀬殿 の一部を移して建立された法華堂に納骨されていたそうです。 その法華堂は1736年(享保21年)に焼失。 文久年間(1861-1864)の修陵の際に後鳥羽天皇陵が十三重塔に、明治に入ってから順徳天皇陵が円丘に治定されたのだといいます。 大原陵 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝の三男・貞暁と北条政子~高野山にある源氏三代の墓~

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高野山の西室院にある三基の五輪塔は、 源頼朝 の三男 貞暁 が頼朝・頼家・実朝の供養のために建てたものと伝えられています。 貞暁は1186年(文治2年)生まれ。 母は大進局。 頼家 と 実朝 とは異母兄弟。 鎌倉に住んでいたようですが、1192年(建久3年)、 北条政子 の嫉妬により 仁和寺 に入れられ、1208年(承元2年)、 北条義時 の手が迫ったため高野山に逃れたのだと伝えられています。 1218年(建保6年)、上洛した 政子 と面会した 貞暁 は・・・ 頼朝から拝領した短刀で左目をえぐり出し、将軍家を継ぐ意思などないことを示したそうです。 以後、 政子 は 貞暁 に帰依するようになり、源氏一族の菩提を弔わせるための援助を行ったのだとか。 西室院 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ