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5月 3, 2015の投稿を表示しています

源頼朝が流された地・・・蛭ヶ小島:伊豆の国市

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源頼朝 は、1159年(平治元年)、 平治の乱 で初陣(13歳)。 父 義朝 とともに平清盛と戦いますが敗れてしまいます。 父義朝は尾張国で家臣の裏切に遭い殺害され、頼朝は捕えられて清盛のいる六波羅へ送られます。 源氏の正嫡であることから処刑を免れることはできない状況でしたが、清盛の継母池禅尼の懇請で命を助けられたと伝えられています。 平清盛 助命となった頼朝は、1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国流罪となります。 流されたのは 蛭ヶ小島 だったと伝えられています。 蛭ヶ島茶屋 梛の葉の縁結びの碑 伊豆に流された頼朝は、やがて 北条政子 と結婚。 2人を縁を結んでくれたのは、 伊豆山権現 だったのだといいます。 政子は、御神木の「梛の木」の葉を鏡の下に敷き、頼朝との愛を祈ったといわれています。 2人が見ているのは霊峰富士 守山から見た蛭ヶ小島方面 源頼朝 ・・・・・・・・・・・ 蛭ヶ小島 https://www.yoritomo-japan.com/hirugakojima.htm

髭切の太刀の伝説・・・一条戻橋と北野天満宮

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一条戻橋 源頼光の四天王の一人渡辺綱は、 戻橋 のたもとで、愛宕山の鬼女が化けた扇折小百合(おうぎおりさゆり)に出会います。 綱は水面に映った影で鬼女だとさとり、源氏重代の「髭切の太刀」(ひげきりのたち)で鬼女の片腕を切り落としました。 北野天満宮 鬼女の片腕を切り落としたのが 北野天満宮 の上空だったということで・・・ 北野天満宮 には綱が寄進したという燈籠が残されています。 渡辺綱が持っていた「髭切の太刀」は、のちに 源頼朝 が初陣の際に帯したものです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ついでに北野天満宮の境内を簡単に。 楼門 神牛 中門 国宝 本殿、石の間、拝殿、楽の間(合1棟)は国宝に指定されています。 手向山のカエデ 東大寺の鎮守手向山八幡宮から奉納された楓樹。 手向山八幡宮には「菅公腰掛石」が伝えられています。 梅鉢紋 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

鎌倉:由比ヶ浜のハマヒルガオ2015/05/08

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由比ヶ浜 の ハマヒルガオ (稲瀬川付近) 帰りに 七里ヶ浜 を歩いてみましたが、国道の擁壁工事でハマヒルガオは観ることができませんでした。 稲村ヶ崎まで行けば咲いているかも・・・ ・・・・・・・・・・・ 鎌倉の海 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi.htm

世界文化遺産登録が確実に!韮山反射炉

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5月4日、「明治日本の産業革命遺産製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」の23の構成施設について、ICOMOS(イコモス:国際記念物遺跡会議)は世界文化遺産への登録勧告を行いました。 伊豆の国市の 韮山反射炉 もその中に含まれています。 韮山反射炉 反射炉とは、金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉。 熱を反射させる仕組みになっていることから「反射炉」と呼ばれています。 1853年(嘉永6年)にペリーが来航。 海防の強化に乗り出した江戸幕府は、韮山の代官江川英龍を責任者として、大砲鋳造のための施設を造ることを決定します。 鋳鉄製24ポンドカノン砲 (復元) 24ポンドカノン砲は、 韮山反射炉 で最も多く鋳造された大砲です。 江川太郎左衛門英龍 江川英龍(坦庵)は、韮山で地位を固めた江川氏の三十六代目。 国防の必要性を幕府に訴え、江戸湾防備のために品川沖に台場を設置し、そこに備える大砲を鋳造するための反射炉を造り始めました。 残念ながら、その完成を見ずに亡くなりますが、それを引き継いだ子英敏が1857年(安政4年)に完成させています。 江川邸 江川氏 は、源満仲の二男宇野頼親を祖とする 清和源氏 。 1156年(保元元年)の 保元の乱 で崇徳上皇方について敗れた三代目の宇野親信が、落ち延びて韮山の地に定住したのだといいます。 四代目の治信は、1180年(治承4年)の 源頼朝 の挙兵に参じたと伝えられ、十六代目の英親は、伊東に流されていた 日蓮 を屋敷に迎え供養を尽くしたといいます。 本立寺 本立寺 は、江川氏の菩提所。 日蓮 が教化を行ったところとされ、鐘楼の梵鐘は、鎌倉の 東慶寺 にあった梵鐘です。 ・・・・・・・・・・・ 韮山反射炉 https://www.yoritomo-japan.com/nirayama-hansharo.htm 源頼朝配流の地 (伊豆韮山の旅) https://www.yoritomo-japan.com/izu-nirayama.htm