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藤原道長 vs 興福寺~源頼親・蓮聖・定澄と道長~

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興福寺 興福寺 は藤原氏の氏寺ですが・・・ 藤原氏の全盛の時代の信仰の第一は天台宗や真言宗で興福寺ではなかったようです。 藤原道長 の時代には荘園を巡って対立関係にあったのだといいます。 道長は、源頼親を大和国司とし、興福寺の荘園拡大を抑制しようとしていたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼親は、1006年(寛弘3年)の春の除目で大和守となりますが・・・ 任国に着任する以前から、頼親に仕える当麻為頼と 興福寺 の蓮聖との間では、競田(どちらのものか争っている田)があったようです。 『御堂関白記』によると、6月、為頼が興福寺領池辺園預(荘官)を殴打(殺害?)。 これに対し、興福寺の蓮聖が三千人の僧を率いて為頼邸を襲ったのだといいます。 この事件に対し、 道長 は蓮聖に下手人を差し出すよう命じ、蓮聖の公請(朝廷から法会や講義に召されること)を停止しています。 興福寺側に非があると判断したようです。 参考までに、 藤原実資 の『小右記』には、為頼が何らかの事件を起こし、興福寺が事情を問いただそうとすると、為頼は自邸の財物を搬出した上で焼き払い、興福寺の乱行を訴えたのだとか・・・ 7月になると 興福寺 別当の定澄が 道長 のもとを訪れ、「正しい裁定がなされなければ、興福寺の者が大挙して都に押し寄せ、 土御門殿 や源頼親邸を襲う」と脅します。 そして、興福寺大衆数千人が入京する事態になりますが、道長は官吏に興福寺大衆を追い立てさせて退去させたようです。 興福寺大衆が退去した後、道長は、興福寺側の要求のうち、事件の実情を調査する実検使の派遣には応じましたが、頼親と為頼の解職には応じず、蓮聖に対する公請停止取消にも応じませんでした。 こうして、この事件は 道長 の全面的勝利に終わったのだとか。 参考までに、定澄は翌年の道長の御嶽詣に奉仕しています。 📎藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 平安時代、寺社は仏や神の権威と武力を背景に、集団で訴えを起こしました(強訴)。 比叡山 の僧兵は 日吉大社 の神輿を奉じて強訴に及びましたが(神輿動座)、 興福寺 は 春日大社 の神体の神木を担ぎ出していたそうです(神木動座)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2024小出川彼岸花まつり~藤沢・茅ヶ崎・寒川~

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藤沢市、寒川町、茅ヶ崎市を流れる小出川沿いには、約3㎞にわたって彼岸花が咲きます。 2024年の彼岸花まつりは9月21日(土)。 小出川沿いには多くの寺社が多くあるので、歴史好きの人も楽しめます。 寒川神社 寒川神社 は、「関八州鎮護の神」として古くから崇められ、 源頼朝 、 北条義時 、 武田信玄 などの武将の篤い信仰を受けた。 梶原景時館址 (寒川町) 梶原景時 は、1180年(治承4年)の 石橋山の戦い で 源頼朝 の命を救ったと伝えられる武将。 頼朝の鎌倉体制を固めるため、中心人物として活躍しました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉のヒガンバナ

2024龍口法難会~龍口寺のぼたもち供養~

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伝説によると・・・ 1271年(文永8年)9月12日、鎌倉幕府に捕らえられ、 龍ノ口刑場 に護送される 日蓮 の前に一人の老婆が現れます。 老婆は 日蓮 に「にぎり飯」を差し出しますが、 日蓮 は空腹と疲労のためか「にぎり飯」を落としてしまいます。 「にぎり飯」は砂だらけとなってしまいますが・・・ 日蓮 は、 「ありがたや、ごまのぼたもちじゃ」 といって喜んで食べたのだといいます。 そのため、 龍口寺 の 龍口法難会 は「ぼたもち供養」とも呼ばれ、法要では「ごまのぼたもち」が撒かれます。 龍口法難会 は9月11日~12日。 特に盛り上がりをみせるのは12日の夜。 龍口寺 龍口寺 は、 日蓮 の 龍ノ口法難 の霊跡に建てられた寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

小笠原貞宗~小笠原流礼法の中興の祖~

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小笠原氏は、 新羅三郎義光 を祖とする甲斐源氏の一流。 加賀美遠光 の次男で 源頼朝 に仕えた 長清 が小笠原を称したことに始まります。 代々、鎌倉幕府に仕えますが、七代目の貞宗は、1333年(元弘3年)5月7日、幕府に反旗を翻した 足利尊氏 が京都の 六波羅探題 を陥落させると尊氏に従います。 その後、尊氏の嫡男で人質として鎌倉に留め置かれていた義詮が鎌倉を脱出すると、これに従い、上野国の 生品神社 で倒幕の挙兵をした 新田義貞 と合流。 義貞の 鎌倉攻め に加わりました(5月22日 鎌倉幕府滅亡 )。 1335年(建武2年)に起こった北条時行の反乱( 中先代の乱 )から南北朝内乱の初期にかけても尊氏方の武将として各地を転戦し武功を挙げています。 小笠原流流鏑馬 鶴岡八幡宮 の 例大祭 で奉納される 小笠原流流鏑馬 は、 小笠原長清 を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。 七代小笠原貞宗は弓術・馬術に武家の礼法を加えたとされ、小笠原流礼法中興の祖といわれています。

後白河法皇の願いで再興された東大寺の大仏

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東大寺 の本尊・ 銅造盧舎那仏坐像 は、聖武天皇の願いで造立された仏像。 東大寺大仏、奈良の大仏と呼ばれ親しまれています。 銅造盧舎那仏坐像 「盧舎那仏」 (るしゃなぶつ)は、釈迦如来の別名で世界を照らす仏・ひかり輝く仏なのだといいます。 左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っているのだとか。 しかし、聖武天皇の大仏は、1180年(治承4年)に 平重衡 の兵火( 南都焼討 )によって焼失してしまいます。 南都焼討 では藤原氏の氏寺・ 興福寺 が全焼。 東大寺 も主要伽藍のほとんどが焼け落ち、難を逃れたのは 二月堂 ・ 法華堂 ・ 転害門 などだけだったのだとか。 東大寺の再興は、 南都焼討 の翌年から 後白河法皇 の支援のもとで始められました。 まず行われたのは大仏の鋳造。 大勧進職に 重源 が就任し、鋳造には宋の工人 陳和卿 が尽力。 源頼朝 も大仏の鍍金料として千両の金を寄進しています( 奥州平泉 の 藤原秀衡 は五千両の金を寄進。)。 そして、1185年(文治元年)8月28日に開眼供養が行われました。 開眼供養では 後白河法皇 自らが筆をとったのだ伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。