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1月 7, 2024の投稿を表示しています

花山天皇の教育係だった紫式部の父・藤原為時

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紫式部 の父・ 藤原為時 は、977年(貞元2年)、師貞親王(のちの 花山天皇 )の読書始では副侍読を務めています。 読書始(どくしょはじめ)は、皇族や貴族の子弟が初めて読み方を授けられる儀式。 侍読(じどく)は、天皇や東宮のそばに仕えて学問を教授する学者のこと。 984年(永観2年)、師貞親王が即位して 花山天皇 が誕生すると、為時は式部丞・六位蔵人に任じられ、後の出世も期待されますが・・・ 花山天皇 は、986年(寛和2年)6月23日、 藤原兼家 ・ 道兼 父子の策略により 元慶寺 で出家しまいます( 寛和の変 )。 花山天皇の退位により官職を辞した 為時 は、996年(長徳2年)に越前守に任じられるまで散位の時が続くことに・・・ 元慶寺 元慶寺 は、 寛和の変 で花山天皇が出家した寺。 そのため、花山寺とも呼ばれています。

陸奥へ向かう藤原実方が通った君待橋

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君待橋の碑 995年(長徳元年)、宮中で 藤原行成 の冠を投げ捨てたことが原因で陸奥守に左遷されたという 藤原実方 。 陸奥に向かう 実方 が、この橋にさしかかって里人に橋の名をたずねたところ「君待橋」と答えたので 「寒川や 袖師ヶ浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」 と詠んだのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

蘆山寺の紫式部像~源氏物語を執筆した地~

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紫式部 の邸跡・ 蘆山寺 の本堂入口には紫式部像が置かれています。 この地で 『源氏物語』 が書かれました。 『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)11月、出産のため 土御門邸 に下がっていた中宮・ 藤原彰子 は、 草子作り を始めます。 藤原道長 も和紙や筆などを差し入れたのだといいます。 この草子が 『源氏物語』 と考えられています。 『源氏物語』 が文献上で初登場するのもこの年。 藤原公任 は紫式部にこう語りかけたのだとか。 「あなかしこゝのわたりわかむらさきや侯」 蘆山寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原兼家の邸宅:東三条殿~紫式部が初出仕した所かも。~

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東三条殿 は、二条大路南西洞院大路東にあった 藤原兼家 の邸宅。 ここで長女の 超子 は 三条天皇 を次女の 詮子 は 一条天皇 を出産。 兼家の死後は、嫡男・ 道隆 に継承され、道隆の長女・ 定子 は東三条殿から 一条天皇 に入内。 道隆の死後は 道長 が相伝。 紫式部 は、 道長 の長女で 一条天皇 の中宮となった 彰子 に仕えますが、初出仕の時期については1005年(寛弘2年)とする説と、翌寛弘3年とする説などがあります。 1005年(寛弘2年)11月、 平安宮 の 内裏 が焼失してしまっているため、一条天皇は 東三条殿 に遷った後、翌年、 一条院 に遷御しているので、初出仕の場所は寛弘2年ならば 東三条殿 、寛弘3年ならば 一条院 ということになるようです。 東三条殿跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆