関東管領職を譲り受けた上杉謙信~鎌倉の歴史~
越後国の戦国大名・上杉謙信。 1530年(享禄3年)1月21日誕生。 父は越後国の守護代・長尾為景。 母は虎御前(長尾房景の娘)。 幼名は虎千代。 1543年(天文12年)8月15日に元服、長尾景虎と名乗る。 1548年(天文17年)12月30日、兄の晴景から家督を相続し守護代に。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~関東管領~ 鶴岡八幡宮 関東管領 とは、鎌倉府の長官・ 鎌倉公方 を補佐するための役職。 1558年(永禄元年)、小田原北条氏に攻められた 関東管領 ・上杉憲政は、越後国へ逃れ、長尾景虎を頼ります(※憲政の越後入りの時期については他説あるようです。)。 越後に入った憲政は景虎を養子とします。 そして、1561年(永禄4年)3月、憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を景虎に譲りました。 拝賀の儀は 鶴岡八幡宮 で行われています。 この時から、長尾景虎は上杉政虎と名を改めたようです(名を改めた時期については諸説あるようです。)。 ただ、この年の12月には将軍足利義輝の一字を賜り、政虎から輝虎と改めているようです。 謙信を名乗るようになるのは1570年(元亀元年)から。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~長尾氏~ 長尾氏は、 鎌倉権五郎景政 を祖とする平氏といわれ、平良文を祖とする坂東八平氏にも数えられています(※諸説あるようです。)。 鎌倉郡長尾庄を本拠としていました。 長尾定景一族の墓 (久成寺) 定景は、 源頼朝 が挙兵したとき平家方につきました。 富士川の戦い 後、頼朝に投降して 岡崎義実 に預けられますが、法華経信者だったことで許されたのだと伝えられています(参考: 法華経に救われた長尾定景 )。 その後、 三浦氏 の配下となり、 源実朝 を暗殺した公暁を打ち取るなどの活躍をしています。 しかし、1247年(宝治元年)、子の景茂の代に起こった 宝治合戦 で、 三浦泰村 に味方して敗れ、景茂は泰村とともに源頼朝の 法華堂 で自刃しました。 長尾城 も 北条時頼 軍に攻められ、長尾氏は滅亡しています。 宝治合戦 で生き残った景茂の子・景忠の子孫は、鎌倉時代後期頃から 上杉氏 に仕えるようになり、上杉謙信に繋がっていくようで