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10月 22, 2017の投稿を表示しています

関東管領職を譲り受けた上杉謙信~鎌倉の歴史~

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越後国の戦国大名・上杉謙信。 1530年(享禄3年)1月21日誕生。 父は越後国の守護代・長尾為景。 母は虎御前(長尾房景の娘)。 幼名は虎千代。 1543年(天文12年)8月15日に元服、長尾景虎と名乗る。 1548年(天文17年)12月30日、兄の晴景から家督を相続し守護代に。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~関東管領~ 鶴岡八幡宮 関東管領 とは、鎌倉府の長官・ 鎌倉公方 を補佐するための役職。 1558年(永禄元年)、小田原北条氏に攻められた 関東管領 ・上杉憲政は、越後国へ逃れ、長尾景虎を頼ります(※憲政の越後入りの時期については他説あるようです。)。 越後に入った憲政は景虎を養子とします。 そして、1561年(永禄4年)3月、憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を景虎に譲りました。 拝賀の儀は 鶴岡八幡宮 で行われています。 この時から、長尾景虎は上杉政虎と名を改めたようです(名を改めた時期については諸説あるようです。)。 ただ、この年の12月には将軍足利義輝の一字を賜り、政虎から輝虎と改めているようです。 謙信を名乗るようになるのは1570年(元亀元年)から。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~長尾氏~ 長尾氏は、 鎌倉権五郎景政 を祖とする平氏といわれ、平良文を祖とする坂東八平氏にも数えられています(※諸説あるようです。)。 鎌倉郡長尾庄を本拠としていました。 長尾定景一族の墓 (久成寺) 定景は、 源頼朝 が挙兵したとき平家方につきました。 富士川の戦い 後、頼朝に投降して 岡崎義実 に預けられますが、法華経信者だったことで許されたのだと伝えられています(参考: 法華経に救われた長尾定景 )。 その後、 三浦氏 の配下となり、 源実朝 を暗殺した公暁を打ち取るなどの活躍をしています。 しかし、1247年(宝治元年)、子の景茂の代に起こった 宝治合戦 で、 三浦泰村 に味方して敗れ、景茂は泰村とともに源頼朝の 法華堂 で自刃しました。 長尾城 も 北条時頼 軍に攻められ、長尾氏は滅亡しています。 宝治合戦 で生き残った景茂の子・景忠の子孫は、鎌倉時代後期頃から 上杉氏 に仕えるようになり、上杉謙信に繋がっていくようで

太田道灌の首塚~鎌倉:英勝寺~

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英勝寺 の裏山にある 太田道灌の首塚 。 太田道灌は 扇谷上杉家 に仕えた戦国武将。 扇谷上杉家のために尽くした道灌でしたが、1486年(文明18年)7月26日、その才能を恐れた主君上杉定正の粕屋の館(伊勢原市)におびき出され謀殺されました。 大慈寺殿と刻まれているのでしょうか・・・ 道灌の法名はたくさんあるようですが、道灌が謀殺された伊勢原市に菩提所の 大慈寺 があります。 英勝寺 英勝寺 開山の英勝院尼は、道灌から数えて四代目の康資の娘といわれています。 徳川三代将軍家光より道灌の旧跡を譲り渡され英勝寺が建立されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊勢原市最大のイベント 太田道灌の首塚の先は 源氏山公園 。 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース の中間点です。 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコースMAP

源氏山公園の源頼朝像

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鎌倉の中心にある 「源氏山」 。 源義家 (八幡太郎)が後三年の役に出陣の際、この山に源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したことから付けられたのだといいます。 源頼朝像は、 頼朝 の鎌倉入り800年を記念して建てられたもの。 源氏山公園 は、 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコース の中間地点。 これからは紅葉シーズン。 源氏山公園の紅葉 葛原ヶ岡・大仏ハイキングコースMAP

阿仏尼の墓~鎌倉~

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阿仏尼の墓 扇ガ谷にある阿仏尼のものと伝えられる層塔。 阿仏尼は公家・藤原為家の妻。 1275年(建治元年)、為家が亡くなると・・・ 長男の為氏(母:宇都宮頼綱の娘)と為相(阿仏尼の子)の間で相続問題が発生します。 そこで、阿仏尼は為相の正当性を鎌倉幕府に訴えるために鎌倉へやってきました。 そのときの紀行文が『十六夜日記』です。 1279年(弘安2年)10月16日に旅に出た事から名付けられたのだといいます。 墓の台座に刻まれた文字 訴訟は為相の勝訴に終わったようですが、阿仏尼は訴訟の結果が出る前に亡くなってしまったようです。 亡くなったのは鎌倉なのか、それとも京都に戻ってからなのかは不明です。 阿仏尼邸旧蹟碑 鎌倉での阿仏尼の住まいは 月影ヶ谷 だったといいます。

金沢八景~浮世絵に描かれた風景~

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金沢の景色は、 鎌倉五山 の禅僧から、現中国杭州市の西湖と似ているといわれてきた。 そして、江戸時代初期に、明の禅僧、東皐心越(とうこうしんえつ)が、徳川光圀の 『新編鎌倉志』 に基づいて、能見堂から見た景色を故郷の「瀟湘八景」のなぞらえて漢詩を詠んだことで、金沢八景の名が広まったといわれている。   小泉夜雨 (こずみのやう) ~手小神社~ 称名晩鐘 (しょうみょうのばんしょう) ~ 称名寺 ~ 乙舳帰帆 (おっとものきはん) ~海の公園の内陸~ 洲崎晴嵐 (すさきのせいらん) ~ 州崎神社 ~ 瀬戸秋月 (せとのしゅうげつ) ~ 瀬戸神社 ~ 平潟落雁 (ひらがたのらくがん) ~平潟湾~ 野島夕照 (のじまのせきしょう) ~野島夕照橋~ 内川暮雪 (うちかわのぼせつ) ~内川入江または平潟湾~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

運慶の大威徳明王~金沢称名寺~

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称名寺 の 大威徳明王坐像 は、文書の奥書から1216年(建保4年)に 運慶 が造立したことが判明しています。 発願者は、 源頼家 と 源実朝 の養育係を務めた大弐局。 称名寺 https://www.yoritomo-japan.com/kanazawa/shomyoji/shomyoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆