別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年5月28日火曜日

気比神宮~紫式部・源義経が参拝した越前国一宮~




気比神宮は北陸道の総鎮守。

越前国の一宮。

996年(長徳2年)、父の藤原為時とともに越前国へ下向した紫式部も参拝したものと思われます。


そして、紫式部の越前下向から190年後、


『義経記』によると・・・

壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだといいます。

義経は唐崎の松比叡山日吉大社、堅田浦を眺めながら琵琶湖の西岸沿いを進み、白鬚神社を拝みながら今津浦を過ぎて海津浦へ。

海津浦から愛発山を越えて敦賀に至り、気比神宮で祈願した後、木ノ芽峠を越えて越前武生に辿り着いたようです。








紫式部


源義経



紫式部の越前下向



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語


紫きぶ七橋


光る君へ 越前 大河ドラマ館


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2024年5月3日金曜日

六日の菖蒲~源義経の屋島の戦い~




「六日の菖蒲」とは、時機に遅れて役に立たないことのたとえ。

菖蒲は5月5日の端午の節句に用いるもので、5月6日では間に合わない・・・。

『平家物語』には、屋島の戦いに遅れて到着した梶原景時源義経に「六日の菖蒲」と嘲笑されたことが語られています。


『吾妻鏡』によると、1185年(元暦2年)2月18日、暴風の中を五艘の船(150騎)で摂津国を出航した義経は、通常では3日かかるところを翌朝には阿波国に上陸。

19日には屋島に拠る平家軍を攻めて敗走させ、21日には志度寺に籠る残党を服従させました。

一方、景時らの百四十余艘は、22日になって屋島に到着したのだとか。


平安時代の端午節会では、軒に菖蒲や蓬を挿し、菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った「薬玉」(くすだま)を柱に下げたりしていたようです。

端午節会は清少納言の『枕草子』や紫式部『源氏物語』にも描かれています。




屋島の戦い


端午節会

菖蒲祭

草鹿









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源義経

梶原景時


紫式部


清少納言


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2024年4月27日土曜日

鶴岡八幡宮~源頼朝が平安京の内裏に見立てた社~




鶴岡八幡宮は、源頼朝が武家の都の中心に据えた社。

北条時政の先祖といわれる平直方から鎌倉の地を譲り受けた頼朝の先祖・頼義が創建したと伝えられています。

源氏の氏神・石清水八幡宮の祭神をお迎えし、由比郷鶴岡の地に創建されたことから鶴岡若宮(由比若宮)と呼ばれていました。




参道の若宮大路は、平安京の朱雀大路を模して造営されました。

段葛は若宮大路の中央に造られた日本に唯一残されている遺構。



若宮大路の造営と併行して、放生池も造営されました。

今日では、社殿に向かって左が平家池、右が源氏池と呼ばれています。



舞殿のある場所は、源義経が馬を引いた所。

そして、義経の妾・静御前が舞った所。



旗上弁財天社は、北条政子が建立したものとも伝えられています。




鶴岡八幡宮


平安宮 源氏物語ゆかりの地




鶴岡八幡宮の別当

神仏混淆の宗教施設

源頼朝の鎌倉幕府と鬼門を守護・鎮護した神仏

源頼朝と鶴岡八幡宮と東大寺

静の舞

武田流流鏑馬

小笠原流流鏑馬

源頼朝の五重塔

御神木の大銀杏

鶴岡八幡宮の神霊と建長寺・円覚寺

源実朝の暗殺

源実朝が暗殺された日

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源頼朝像と善光寺

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