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7月 30, 2023の投稿を表示しています

源倫子・藤原彰子に仕えた赤染衛門は大江広元の先祖

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赤染衛門 は、 源倫子 ・ 藤原彰子 に仕えた平安中期の女流歌人。 紫式部 や 和泉式部 の同僚で、 藤原定子 に仕えた 清少納言 とも交流があったのだといいます。 夫は文章博士・大江匡衡で、子の挙周の六代孫には鎌倉幕府の政所別当を務めた 大江広元 がいます。 『栄華物語』の作者という説も。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

お市の方が産んだ浅井三姉妹~茶々・お初・お江~

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織田信長の妹・ お市の方 は、信長が 本能寺の変 で横死した後、柴田勝家と再婚し、三人の娘とともに 北ノ庄城 で暮らします。 しかし、勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れ、 北ノ庄城 で自害しました。 お市の方 には、浅井長政との間に生まれた三人の娘がいました。 三姉妹は 北ノ庄城 を逃れて、のちに長女の茶々は秀吉の側室となって 淀殿 と呼ばれ、二女の初は京極高次に嫁ぎ( 常高院 )、三女の江は徳川秀忠に嫁いでいます( 崇源院 )。 北ノ庄城址 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北ノ庄城で自害した織田信長の妹・お市の方

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お市の方像 (北ノ庄城址) お市の方 の最初の結婚相手は、近江国の浅井長政。 長政が兄の織田信長に攻められて自害した後は、 3人の娘とともに 岐阜城 で暮らしていたが・・・ 本能寺の変 後、越前国北ノ庄の柴田勝家と再婚。 しかし、勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れたため、 北ノ庄城 で自害(享年37)。 北ノ庄城址 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

天正壬午の乱と新府城跡の藤武神社

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織田信長亡き後、 徳川家康 は武田の遺領・甲斐・信濃・上野の反乱を鎮圧するため出陣( 天正壬午の乱 )。 そして、小田原の 北条氏直 と戦うことに(若御子対陣)。 家康は、武田勝頼が築いた 新府城 に布陣。 戦いは7月から10月まで続いたが、上野国を北条氏が、甲斐国・信濃国を徳川氏がそれぞれ領有することで和睦している。 新府城跡 の藤武神社は、藤井庄と武田庄を見下す所に鎮座することから藤武という名称なのだとか。 藤武神社は、甲州征伐で焼失してしまっていたが、若御子対陣で 新府城 を本陣とした 家康 は、戦後、藤武神社を再建したのだと伝えられている。 再建担当者は、 松平信康 の守役だった 平岩親吉 。 天正壬午の乱 後に築かれた 甲府城 は、親吉によって築き始められたともいわれる。 新府城跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安倍晴明~藤原道長に信頼された陰陽師~

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安倍晴明 は、 花山天皇 ・ 一条天皇 ・ 藤原道長 に信頼された陰陽師。 陰陽師は、星の動きで吉凶を予測し、呪術をつかっての厄除けや怨霊を鎮める役職。 晴明は、平安以降、鎌倉時代から明治に至るまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。 源頼朝 は晴明の護符が貼られた屋敷を仮の御所としました。 晴明神社 晴明神社 は、 一条天皇 が晴明の偉業を讃えるため、晴明の屋敷跡に創建。 晴明の屋敷は、御所の 鬼門 に位置にありました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原道長の四天王

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藤原道長 に仕えた平維衡・平致頼・藤原保昌・源頼信は、武勇に優れ、 「道長四天王」 と称されました。 平維衡 は平貞盛の四男。 伊勢平氏の祖で子孫の 平清盛 はその全盛期を築きました。 平致頼 は平公雅の三男。 尾張平氏・長田氏の祖で、 源頼朝 の父 源義朝 を裏切って謀殺した 長田忠致 は子孫。 藤原保昌 は藤原南家・藤原致忠の子。 妻は 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 に仕えた和泉式部。 源頼信 は 清和源氏 二代目の源満仲の三男。 諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任します。 河内源氏 の祖で七代目の 源頼朝 は鎌倉に幕府を開いています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆