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源頼朝と御家人・・・所領安堵の下文

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『吾妻鏡』によれば、 源頼朝 は、1191年(建久2年)正月15日に政所の吉書始を行っています。 「政所」とは、三位以上の公卿に設置を許された家政機関で、鎌倉幕府においては一般政務・財政を司る機関のことです。 1184年(元暦元年)に設置された公文所を前身としています。 この吉書始で 頼朝 は、それまでの文書形式を改めて「政所下文」という形式をとることとし、これまでの書状を回収して「政所下文」として出し直しすことを命じています。 簡単にいうと・・・ これまでは、御家人に対しての所領安堵などには、 頼朝 の花押が描かれた文書が発行されていましたが、それを回収して政所職員が署名した文書を発行するということのようです。 ~千葉常胤の逸話~ 『吾妻鏡』によれば・・・ 征夷大将軍に任命された 頼朝 は、1192年(建久3年)8月5日、改めて「将軍家政所始」を行っています。 このとき先ず 千葉常胤 に政所下文が与えられました。 しかし、 常胤 は・・・ 「政所職員の署名だけの文書では、所領安堵の証拠とすることはできない」 として 頼朝 の花押のある文書を添えて下してもらったといいます。 ~小山朝政への頼朝の下文と政所下文~ 『吾妻鏡』には、 常胤 の逸話しか語られていませんが、 小山朝政 も頼朝の花押の入った下文を添えてもらっています。 下の文書は、小山朝政に下されたものです。建久3年9月12日付けで、 頼朝 の花押の入った下文と、新しい形式の政所下文の両方が発行されていることがわかります。 頼朝の花押の入った下文 新しい形式の政所下文 案主:藤井俊長・令:二階堂行政・知家事:中原光家・別当:大江広元の花押の入った文書です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 御家人にとっては、政治機関など関係なく、 源頼朝 という鎌倉の主「鎌倉殿」の書状が欲しかったということなのでしょう。 効力は同じだと言っても、やはり、官僚の発行した文書よりも、将軍自らが発行した文書の方が重みがありますから・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ※公文所から政所と改称された時期については諸説あるようです。 1191年(建久2年)の吉書始のときとするものや、三位以上の公卿に設置を許された家政機関であるこ

源頼朝の命日:頼朝がのこしたもの・・・

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源頼朝 は、1180年(治承4年)8月に挙兵します。 石橋山の戦い では敗れてしまうものの、安房に渡り、10月には大軍を率いて鎌倉に入りました。 (参考: 源頼朝の鎌倉入り~源氏再興の挙兵~ ) しかし・・・、鎌倉には・・・、 頼朝 の遺跡がほとんどありません・・・。 ~武家の都「鎌倉」・・・鎌倉幕府~ 頼朝 の鎌倉入りを可能にしたのは、先祖 頼義 ・ 義家 ・ 義朝 らによって東国の基盤が築き上げられていたことによります。 東国の武士は、自分たちの所領を安堵してくれるリーダーを求めていました。だからこそ源氏の嫡流である 頼朝 に期待したのでしょう。 こういう意味からすると、「頼朝の挙兵」は、 頼朝 自身が源氏再興のために挙兵したというよりも、「東国武士たちが高貴な家柄の頼朝を旗にした挙兵」といった方がいいのかもしれません。 そして、 頼朝 と東国武士は鎌倉に武家の都を築きました。 (参考: 源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~ ) 大倉幕府跡 ~鶴岡八幡宮~ 鎌倉に入った 頼朝 は、まず 鶴岡八幡宮 を現在の地に遷座し、大倉の地に 御所 を構え、「鎌倉の主」となります。 (参考: 東国の主君「鎌倉殿」    源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~ ) 鶴岡八幡宮 鎌倉の街造りは 鶴岡八幡宮 を中心に進められていきます。 十王岩 からみた鎌倉の街 ~勝長寿院~ 平氏が滅亡した1185年(元暦2年)には、父 義朝 の菩提を弔うための 勝長寿院 が創建されます。 「黄金の阿弥陀仏」が安置されされた壮大な寺院だったようです。 残念ですが、今はその跡地と思われる場所に碑が残されているだけとなっています。 (参考: 源義朝の遺骨が葬られた勝長寿院 ) 勝長寿院 ~静の舞と流鏑馬~ 1186年(文治2年)、 鶴岡八幡宮 では、 源義経 の愛妾静御前が舞を披露しました。 静の舞 4月の 「鎌倉まつり」 では、 鶴岡八幡宮 の 舞殿 で 「静の舞」 が披露されています。 1187年(文治3年)、 鶴岡八幡宮 では放生会が行われ 「流鏑馬」 が奉納されました。 この放生会が 例大祭 のはじまりといわれています。 (参考: 鶴岡八幡宮の

新春の鎌倉:宝戒寺

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本堂 本堂内には、貴重な仏画などが公開されていました。 1月7日までは天井画も公開されていたようです。 聖天堂 秘仏「歓喜天像」が安置されています。 鎌倉地方独特の土紋装飾が施された仏像で、 日本最古の木造聖天といわれています。 徳崇大権現堂 北条高時 の木像が安置されているお堂です。 太子堂 聖徳太子の二歳尊像が安置されているお堂です。 1月22日には 「太子講」 が行われます。 境内に咲く スイセン 。 宝戒寺 はツバキで知られた寺です。 宝戒寺 の毘沙門天は、 鎌倉・江の島七福神 の一つです。 今、鎌倉は七福神巡りのお客さんが多いようです。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:報国寺のロウバイ2012/01/10

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報国寺 の ロウバイ です。 鎌倉のロウバイ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/robai.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉:本覚寺の本えびす2012/01/10

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本覚寺 の正月は 「鎌倉えびす」 。 元旦から3日までが「初えびす」、1月10日が「本えびす」。 本覚寺 の夷神は、 鎌倉・江の島七福神 の一つ。 大変な賑わいです。 福笹を授与する福娘さん。 「商売繁盛お祈り申し上げま~す。」 とかけ声をかけながら授与してくれます。 こちらは「熊手」でしょうか。 にぎり福 愛・学・財・健・福の5種類のお守りです。 「本えびす」では、11時から「本えびす祈祷会」が行われ、その後、正午から「新春福餅つき」が行われます。 福娘さんたちも餅つきに参加します。 つかれた福餅は、参拝客に振る舞われていました。 「福餅」をもらうための行列が境内の外の道路にまでつながっていたようです。 鎌倉えびす https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/honkakuji-ebisu.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源頼朝の死

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1199年(建久10年)正月13日、鎌倉に武家の都を築いた 源頼朝 が53歳でこの世を去りました。 前年12月27日、 相模川の橋供養 にのぞみ、その帰途、落馬したのが死因と伝えられていますが、詳しい事は不明です。 源頼朝墓 への石段 53歳で亡くなった頼朝の年齢と同じ段数。 晩年の 源頼朝 は・・・ 1195年(建久6年)、 東大寺 の 大仏殿 の落慶供養に参列するため上洛します。 その際に、大姫の入内運動を行いますが、 頼朝 が接近したのは、これまで協力体制を築いてきた関白九条兼実ではなく、反幕派の丹後局と源通親でした。 (※すでに兼実が娘を入内させていたためといわれていますが・・・) 翌1196年(建久7年)11月には、通親の讒言によって兼実が失脚しますが(建久7年の政変)、 頼朝 はこれを黙認していたといいます。 しかし・・・ 1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、 頼朝 の夢は絶たれました。 そして・・・ 1198年(建久9年)正月、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位します。これにより通親は天皇の外戚として権勢を強めました。 (参考: 源頼朝の失政か?・・・大姫入内問題 ) 源頼朝顕彰碑 頼朝 の顕彰碑には、 「君出でて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり」 と刻まれています。 ただ、晩年の 頼朝 の行動は、親幕派の九条兼実を失脚させ、反幕派の源通親の権力を増大させてしまいました。 清和天皇から出た源氏。やはり 頼朝 も「貴族」の世界から抜け出すことができなかったということなのでしょうか? 源頼朝墓 現在の 頼朝の墓塔 は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、島津家の紋「丸に十字」を目にすることができます。 この場所は、1189年(文治5年)に 頼朝 が建てた持仏堂があった場所で、 頼朝 はそこに葬られたと伝えられています(持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれました。)。 (参考: 源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ ) 白旗神社 頼朝墓 の下にある 白旗神社 では、1月13日に 例祭 が執り行われ、鎌倉に武家政権の都を創設した 頼朝 の遺徳をたたえる祝詞が奏されます。 (参考:

初薬師・・・日向山宝城坊~日向薬師~

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伊勢原市にある 日向薬師 は、716年(霊亀2年)に行基によって開創された霊山寺がその始まりとされ、現在は宝城坊と呼ばれています。 本尊は、行基が42歳のときに彫ったという薬師如来。 仁王門 仁王像は、鎌倉仏師後藤慶明の作で、子の慶広と孫の運久によって彩色が施されました(参考: 鎌倉彫再興碑~伝統的工芸品「鎌倉彫」の普及活動~ )。 参道 仁王門から本堂に至る参道の寺林は、神奈川県の天然記念物に指定されています。 現在、本堂は修理工事が行われています。建物を一旦解体して、痛んだ部材を修理して組み直すそうです。工期は平成28年9月まで。 宝殿 本尊の薬師如来は、秘仏とされ12年に一度「寅年」に開扉される習わしとなっていたそうですが、今日では、1月1、2、3日(初詣り)・1月8日(初薬師)・4月15日(本尊開扉大法会)のときに開扉されています。 鉈彫(なたぼり)と呼ばれる手法で彫られた素朴な仏像です。 ※横浜の 神奈川県立歴史博物館 でその複製を観ることができます。 宝殿に安置されている仏像 ◎木造薬師如来坐像・・・鎌倉時代 ◎木造薬師如来両脇士像・・・平安時代 ◎木造日光・月光菩薩像・・・鎌倉時代 ◎木造四天王立像・・・鎌倉時代 ◎木造阿弥陀如来坐像・・・鎌倉時代 ◎木造十二神将立像・・・鎌倉時代 参考: 神奈川県の文化財検索画面(宝城坊) ご住職から有り難いお言葉を頂き、薬師さまに祈願した後は、「薬師粥」が振る舞われます。 左上の写真は、「薬師粥」に並ぶ行列です。 薬師粥 薄塩味のお粥とたくあんがよくあいます。 おいしくいただきました。 日向薬師 は、1192年(建久3年)、三代将軍 源実朝 が誕生するときの 祈願所 となりました。 1194年(建久5年)には、 源頼朝 が娘大姫の病気治癒祈願に参詣しています。 (参考: 大姫の病気治癒祈願~源頼朝・・・日向薬師を参詣~ ) そして、1211年(建暦元年)には、 北条政子 と 実朝 室が参詣しています。 鐘堂 と 虚空蔵菩薩 参道のスイセン 田園風景 日向薬師 周辺は、心が和む素晴らしい景色です(参