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鎌倉検定過去問~日蓮の龍ノ口法難~

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(問)「ぼたもち寺」の呼び名で親しまれる常栄寺に伝わる話で、桟敷の嫗にゴマの餅を捧げられ、龍ノ口の法難で奇跡により処刑を免れた僧侶はだれか。 1271年(文永8年)9月12日、 日蓮 は、幕府や諸宗を批判したことで、平頼綱( 北条時宗 の執事)によって捕えられ、 龍ノ口刑場 へと護送されます( 龍ノ口法難 )。 常栄寺 大町の 常栄寺 は、裸馬に乗せられて 龍ノ口刑場 へ護送される 日蓮 に、桟敷の尼が「胡麻入りのぼた餅」を捧げたという言い伝えから、「ぼたもち寺」と呼ばれています。 法源寺 腰越の 法源寺 も「ぼたもち寺」と呼ばれています。 桟敷の尼の実家の菩提寺なのだとか。 龍ノ口刑場跡 処刑されるため 龍ノ口刑場 に護送された 日蓮 は、その時に起こった怪異現象によって救われたのだと伝えられています。 その後、佐渡への流罪となりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ (問) 開山の日朗が幽閉された土牢と『土牢御書』の石碑が、裏山に今も残されている寺院はどこか。 (問) 光則寺の開山は、日蓮の弟子〔 ① 〕で、裏山には〔 ① 〕が幽閉された土牢が残り、傍らには佐渡流罪前夜、日蓮が〔 ① 〕に送った手紙〔 ② 〕の石碑もある。 龍ノ口法難 では、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則邸(現在の 光則寺 )の土牢に幽閉されました。 日朗の土牢 日蓮 が日朗に送った 『土牢御書』 には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていて、日朗は、日蓮の佐渡流罪中、8度にわたって佐渡を訪れたのだといいます。 光則寺 日蓮 が赦免された1274年(文永11年)、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。 それが 光則寺 。 開山は日朗。 宿谷光則は、弟子の身を案ずる 日蓮 に感動して帰依したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

木曽義仲挙兵!~市原合戦~

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旗挙八幡宮 (長野県木曽町) 木曽義仲 は 源義賢 の次男。 1154年(久寿元年)、武蔵国比企郡の 大蔵館 で誕生します。 しかし、翌年、父の義賢が 源義朝 の長男・ 義平 ( 頼朝 の異母兄)に滅ぼされると、幼い義仲は、乳母夫の 中原兼遠 に連れられ、信州の木曽で育てられます。 旗挙八幡宮 は、木曽で育った 木曽義仲 が京都の 石清水八幡宮 を勧請して建立したという神社。 神社周辺が義仲の館だったのだと伝えられています。 木曽で成人した義仲には、平家を征伐して家を興したいという考えがあったようです。 木曽義仲と巴御前 (木曽町:義仲館) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)4月、以仁王の 平家打倒の令旨 が発せられると、8月には 源頼朝 が 挙兵 。 義仲はすぐに参陣しようと思ったようですが・・・ 9月7日、小笠原頼直が義仲討伐のため木曽侵攻を企てます。 それを察した村山義直と栗田寺別当・大法師範覚が出陣し、信濃国市原で合戦が始まりました。 合戦は日暮れまで続きますが、村山義直の矢が尽きてしまいます。 村山義直からの援軍要請を受けた義仲は、大軍を率いて助勢に駆けつけます。 その威勢に怖れをなした小笠原頼直は、 城長茂 を頼って越後国へ逃げて行ったのだといいます。 ※この合戦が史料でみることのできる義仲が関与した最初の戦いです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

龍口法難会~2024龍口寺のぼたもち供養~

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1271年(文永8年)9月12日、幕府の勘気にふれて捕らえられた 日蓮 は、裸馬に乗せられて 龍ノ口刑場 へと護送されますが( 龍ノ口法難 )・・・ 老婆(桟敷の尼)が護送される日蓮に「ゴマ入りのぼたもち」を捧げたところ、奇跡的に処刑を免れたのだとか。 「龍口法難会」 は、 日蓮 が難を免れたことを記念する法会。 9月11日 午後2時~ 仏舎利塔供養 午後7時~ 万灯練り供養 9月12日 午後6時~ ぼたもち供養大法要 難除けぼたもちまき 午後7時~ 万灯練り供養 午前0時(13日)~ ぼたもち供養音楽大法要 難除けぼたもちまき 龍口寺 龍口寺 は、日蓮の 龍ノ口法難 の霊跡に建てられた寺。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原公任の和漢朗詠集が国宝に。

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和漢朗詠集は、撰者とされる 藤原公任 が漢詩の秀句と和歌をまとめた詩歌集。 藤原道長 の四女・ 威子 が 後一条天皇 に入内するときの贈り物の屏風絵に添える歌として撰ばれたもので、道長の五男・教通を婿にしたときの引出物として編纂されたのだと伝えられています。 📎三舟の才~藤原道長の三舟の遊興と藤原公任~ 雲紙本和漢朗詠集 (文化庁資料より) 皇居三の丸尚蔵館収蔵の「雲紙本和漢朗詠集」は「粘葉本和漢朗詠集」とともに和漢朗詠集の最古の遺例とされています。 2024年(令和6年)8月27日、国宝に指定されました。 藤原行成 の筆と伝えられてきましたが、現在では源兼行の筆といわれています。 平等院鳳凰堂 宇治の 平等院 は、 道長 の別荘「宇治殿」を始まりとする寺。 1053年(天喜元年)に落成した阿弥陀堂( 鳳凰堂 )は、 法成寺 の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。 鳳凰堂 の扉の色紙形を揮毫したのは源兼行と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆