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2月 27, 2011の投稿を表示しています

江の島の河津桜(カワヅザクラ)

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江の島 の河津桜が満開です。 ~亀ヶ岡広場~ ( サムエル・コッキング苑 の前) ~みどりの広場~ 辺津宮の先にある広場。 展望台からはヨットハーバーが見渡せます。 江の島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

鎌倉幕府の滅亡~東勝寺跡と腹切やぐら~

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1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉は、 稲村ヶ崎 を突破した 新田義貞 に攻められます。 東勝寺跡碑 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043toshoji.htm 新田義貞 の鎌倉攻めによって敗れた北条氏は、 小町邸 から 東勝寺 へ移ります。 そして、新田勢が迫ってくると 東勝寺 に火をかけ、 北条高時 以下一族約870名が自刃したと伝えられています。 ~東勝寺跡~ 腹切やぐら 東勝寺跡 に残されている「腹切やぐら」は、 北条高時 の首が葬られたとされています。 ただ、鎌倉には 高時 の首塚がいくつもあって、どこが本当の場所のか定かではありません。 北条一族が葬られたのは、釈迦堂ヶ谷やぐら群という説が有力のようですし、 宝戒寺 の地蔵菩薩像の床下の五輪塔に、 高時 の遺骨が収められているという言い伝えもあるようです。 北条首やぐら http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/yagura-hojyokubiyagura.htm お塔の窪やぐら http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/yagura-otounokubo.htm 釈迦堂切通 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kodou-3.htm やぐら前の塔婆 腹切やぐらの上の山腹にある稲荷の祠 「腹切やぐら」から山道を上れば、 祗園山ハイキングコース です。 東勝寺跡 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043toshoji.htm 宝戒寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043hokaiji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

宝戒寺の宝篋印塔~北条氏の供養~

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宝戒寺 は、北条一族の霊を弔うために、後醍醐天皇が 足利尊氏 に命じて建立されました。 本堂に向かって左側の宝篋印塔は、北条氏の供養のために建てられたもの。 1333年(元弘3年)、鎌倉幕府は 新田義貞 の 鎌倉攻め によって滅びました。 このとき 北条高時 以下の北条一族は、 東勝寺 で自刃したと伝えられています。 1335年(建武2年)、後醍醐天皇の命を受けた 足利尊氏 は、 新田義貞 の 鎌倉攻め で焼失した 東勝寺 をこの場所に移し、そのときに 北条高時 らの遺骨も移されたと伝わっています。 本堂の地蔵菩薩坐像の床下には五輪塔があって高時の遺骨が埋葬されているといいます。 ~釈迦堂ヶ谷やぐら群~ かつて、 宝戒寺 二世住持の「普川国師入定窟」があった「釈迦堂ヶ谷やぐら群」では、「元弘3年5月28日」の日付が刻まれた五輪塔の地輪が発見されています。 5月28日という日は、 新田義貞 の 鎌倉攻め によって 北条高時 以下の一族が自刃した5月22日から数えて初七日にあたることから、北条一族供養のための五輪塔と考えられています。 そして、「普川国師入定窟」は、北条一族の供養窟であったとも考えられています。 参考:釈迦堂切通: https://www.yoritomo-japan.com/kodou-3.htm 宝戒寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043hokaiji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

群猿奉賽像庚申塔

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36匹の猿が浮き彫りされた庚申塔です。 下部には蛇が巻き付いています。   江の島展望灯台 から、御岩屋道通りをしばらく歩くと左側に建てられています。 群猿奉賽像庚申塔 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima-kosinto.htm 江の島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

江の島北緑地~モース記念碑と噴水池~

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江の島弁天橋 を渡った左側は緑地の公園となっています。 モース記念碑 江の島入口の北緑地広場にある記念碑です。 エドワルド・S・モースは大森貝塚を発見したことで有名なアメリカの動物学者です。 江の島に東洋初の臨海実験所を開設し海洋生物を研究しました。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-mosu.htm 弁財天と世界女性群像噴水池 東京オリンピックヨット競技を記念したものです。 弁財天とオリンピックの五輪をあらわした五体の像が建てられています。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-harbor.htm 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

江の島の裏参道

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青銅鳥居 江の島弁天橋 を渡りきると・・・ 弁天信仰の象徴ともいわれた青銅鳥居があります。 この鳥居の先は、お土産物屋や飲食店などが並ぶ 江島神社 の参道です。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-seidotorii.htm 江の島東町 青銅鳥居 を左に入ると東町。 民宿や魚屋などが並ぶ漁師町です。 メインの仲見世通りとは違って静 かで懐かしさの味わえる脇道です。 そして 江島神社 への裏参道でもあります。 今は埋め立てられてしまっていますが、昔はすぐそこが海だったそうです。 延命寺 洞窟の中が納骨堂となっています。 中央には閻魔大王が祀られています。 聖天島 延命寺をさらに進んでいけば聖天島公園です。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-shotensima.htm 東町から江の島の頂上へと上る道がいくつかあります。 こんな景色の中を上っていきます。 すると 児玉神社 の裏側に出ます。 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

三浦義明と家臣の墓~材木座:来迎寺~

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1194年(建久5年)、 源頼朝 は 三浦大介義明 の菩提を弔うため能蔵寺という真言宗の寺を創建します。それが現在の 来迎寺 のはじまりとなります。 本堂の横にある二基の五輪塔は、 三浦義明 とその孫多々良重春のものと伝えられています。 1180年(治承4年)、 源頼朝 が挙兵すると 義明 も立ち上がります。 ただ、 石橋山の戦い には、三浦一族を派遣しますが間に合いませんでした。 そして、その帰路、 由比ヶ浜 で当時平家方だった 畠山重忠 軍に遭遇し合戦となってしまいます。 その時の合戦で、孫の多々良重春が討死したと伝わっています ( 小坪合戦と衣笠合戦 ) 。 その後、居城の 衣笠城 も攻められ、 義明 は最期を遂げました。 本堂の裏には 三浦義明 の家臣の墓といわれる石塔群があります。 夏には家臣の墓を覆うようにサルスベリが咲きます。 来迎寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135raikoji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

前浜砂丘~由比ヶ浜~

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源頼朝 の時代、 鶴岡八幡宮 の 大鳥居 の前から砂浜(砂丘)だったといいます。 「前浜」と呼ばれていました。 滑川 は、もっと東を流れていたと考えられています。 海水浴場開場100年の碑 明治17年、長与専斎の推奨によって、鎌倉の海は海水浴場として開かれました。 http://okadosblog.blogspot.com/2011/02/blog-post_7245.html 鎌倉の海 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html