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10月 16, 2011の投稿を表示しています

ダンボールの仏像をライトアップ~2010長谷寺~

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「2010年度 長谷寺紅葉ライトアップ ~夜間特別拝観~」 では、ダンボールを使用して作られた仏像がライトアップされました。 観音堂前に並べられた仏像 阿形像(右)と吽形像(左) 観音像 ダンボールとは思えない神々しく美しい輝き。 この仏像は、 本掘雄二 氏の作品です。 ※2011年のライトアップは、11月19日(土)から12月18日(日)まで。 (参考: 長谷寺ライトアップ2011~BUTSU展(ダンボール仏)~ ) 長谷寺紅葉ライトアップ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/koyo-hase.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

頼朝と義経!涙の対面

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1180年(治承4年)10月20日、 富士川の戦い で平家軍を破った 源頼朝 は、翌日黄瀬川の宿に戻ります。 そこへ一人の若者がやってきて 頼朝 への面会を求めました。 土肥実平 、土屋宗遠、 岡崎義実 らがこれを怪しみ、取り次ぎをしないでいましたが・・・ この話を聞いた 頼朝 は、「年齢の程を思うと奥州の九郎( 義経 )かもしれない。すぐに会おう」と言います。 土肥実平 が若者を請じ入れると、やはり 義経 でした。 義経 が御前に進むと、互いに往時をしのび、懐旧の涙を流します。 そして 頼朝 は、 後三年の役の際に、先祖 源義家 が苦戦をしていると、弟 義光 が朝廷警固の官職を辞して奥州に下り、敵を滅ぼすことが出来たという故事を引き合いに出し、 「今日ここへ来たのは、この先祖の例に匹敵するものだ」 といって 義経 の来訪を喜んだのだといいます。 頼朝・義経の対面石 (静岡県:八幡神社境内) 源義経 義経 は 頼朝 の異母弟。 母は 常盤御前 。 平治の乱 後、 鞍馬寺 に預けられますが、 奥州 へ下り 藤原秀衡 の庇護を受けていました。 鞍馬寺 10月1日には、 義経 の同母兄 全成 も 頼朝 のもとに参上しています。 全成 は、 平治の乱 後、 醍醐寺 に預けられていましたが、 頼朝 が挙兵すると寺を抜け出し、 石橋山の戦い の直後、 佐々木定綱 ら兄弟と出会い、 渋谷重国 に匿われていました。 醍醐寺 (参考: 渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の戦い~ ) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

問注所の設置

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1184年(元暦元年)10月20日、 源頼朝 の御所内に 「問注所」 が設置されました。 「問注」とは、訴訟の当事者を呼び出して対決させ、その内容を文書にすることで、 問注所 の執事には三善康信が命ぜられています。 『吾妻鏡』の10月20日の条には、御所の東側に設置され、「問注所」と書かれた額がかけられたことが記されています。 問注所跡碑 問注所 は、 頼朝 の時代まで御所内にありましたが、 頼朝 亡き後の1199年(建久10年)4月1日、現在の 御成小学校 付近に移転しています。 『吾妻鏡』によれば、人々が群集し、騒ぎたて、無礼を働く者がいたため、 頼朝 の時代から移転が検討されていました。 熊谷直実と久下直光の土地の境界を巡っての論争では、うまく弁解が出来ない直実が西の侍所で髷を切ったという事件が発生し、以来、御所での裁判を中止して、三善善信の家を裁判の場所としてきたといいます。 問注所 の執事を務めた三善康信は公家の家に生まれ、 頼朝 の乳母の妹を母としており、伊豆 蛭ヶ小島 に流されていた 頼朝 に京都の情勢を知らせていた人物として知られています。 鎌倉・室町期を通じて 問注所 の執事は三善氏が世襲しています。 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

東征軍の敗走・・・富士川の戦い

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平家越の碑 (富士川の古戦場) 源頼朝 が鎌倉に入って間もない1180年(治承4年)10月13日、平維盛・忠度を大将とする東征軍が駿河国に入りました。 頼朝 も10月16日、鎌倉を出発しています。 このときの頼朝軍は20万騎だったと『吾妻鏡』は記しています。 10月18日には黄瀬川に到着し、甲斐、信濃の源氏と 北条時政 の2万騎が頼朝軍に合流します。 そして、10月20日、駿河国賀島に到着した 頼朝 は、平家軍と富士川を挟んで対峙します。 しかし、この日の夜半、平家軍の背後に回ろうとした 武田信義 の軍勢に驚いた水鳥が一斉にとび立ったため、敵襲と勘違いした平家軍は戦わずして敗走しまったということです( 富士川の戦い )。 翌10月21日、 頼朝 は平維盛らを追って、ただちに上洛をしようとしますが、 千葉常胤 ・ 三浦義澄 ・ 上総広常 らが、板東の統一が先であることを主張したため、黄瀬川に引き返したといいます。 この黄瀬川で 頼朝 と弟 義経 の対面があります。 頼朝・義経の対面石 (静岡県:八幡神社境内) さてさて・・・ 撤退した平家軍は11月5日に京都へ辿り着きますが、平知度はわずか20騎、平維盛にいたっては10騎にも満たない兵を引き連れていただけだったといいます。 九条兼実は『玉葉』に、 「追討使を承るの日、命を君に奉りおわんぬ。 たとえ骸を敵軍にさらすといへども、あに耻たるか。 いまだ追討使を承るの勇士、いたずらに帰路に赴く事をきかず、もし京洛に入らば、誰か眼を合わすべき哉。 不覚の耻、家にのこり、尾籠の名、世に留めるか。早く路より趾をくらますべきなり。さらに京に入るべからず」 と平清盛の激怒の様子を記しています。 そして、この間、 石橋山の戦い で 頼朝 を苦しめた 大庭景親 が、1000騎を率いて平家軍に合流しようとしますが、頼朝軍の20万騎に前途を塞がれ河村山に逃げ込んでいます(10月18日)。 (参考: 明暗の分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~ ) 河村城址 また、海上から平家軍に合流しようとした 伊東祐親 が 天野遠景 に捕らえられ、 三浦義澄 に預けられています(参考: 鐙摺山 )。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

江ノ島と夕日

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七里ヶ浜 からの 江ノ島 です。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

水晶の五輪塔~鎌倉:浄光明寺~

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高さが41ミリという小さな五輪塔。 浄光明寺 の本尊阿弥陀如来像の胎内に納められていたものなのだそうです。 水晶五輪塔 浄光明寺 の本尊阿弥陀三尊坐像は、1299年(正安元年)、北条久時の発願によって造立されたもので、鎌倉様式を代表する仏像です。 阿弥陀如来には鎌倉地方独特の 土紋 が施されています。 本尊阿弥陀三尊像 浄光明寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137jyokomyoji.htm

江ノ電が置かれた江ノ電もなかの店・・・片瀬

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藤沢から 江ノ電 に乗って 江ノ島駅 を過ぎると、間もなく右側の車窓から”江ノ電が置かれた和菓子屋さん”が見えます。 「江ノ電もなか」で知られている「扇屋」さんです。 屋根には「パンタグラフ」まで置かれています。 この江ノ電の中でおいしい和菓子が作られています。 扇屋さんのある場所は、 龍口寺 の門前。 お寺と江ノ電と和菓子の老舗と。 歴史のある町ならではの景色です。 江ノ電 は、扇屋さんの前から 腰越駅 まで路面電車となります。 ★ 江ノ電もなかの扇屋さん 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源義経を襲撃した土佐坊昌俊

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1185年(元暦2年)5月、平家を 壇ノ浦 に滅ぼし、捕らえた 平宗盛 を護送して鎌倉に凱旋しようとした 源義経 は、兄 頼朝 に阻まれ鎌倉には入れませんでした。 その理由には、 頼朝 に無断で任官されたことや、戦での独断専横的な行動が挙げられます。 歴史物語などでは、 梶原景時 が 頼朝 に讒言したことが大きな原因として取り上げられることが多いようですが・・・ どうもそれだけではなく、かなり多くの御家人が 義経 の自分勝手な行動に恨みを抱いていたようです。 一緒に戦った兄 範頼 も九州の管理を 義経 に横取りされているようですので・・・ 満福寺 義経 は腰越の 満福寺 に留まって、大江広元を通じて 頼朝 に弁明するための 「腰越状」 を書きます。 しかし、 頼朝 から許されることはなく、再び宗盛の護送を命ぜられて京へ帰ることとなりました(1185年(元暦2年6月9日)。 『吾妻鏡』は、その時の 義経 の気持ちを 「その恨みすでに古(いにしえ)の恨みよりも深し」 と記しています。 そして、鎌倉を発つに当たっては、 「関東(頼朝)において怨みを成すの輩は義経に属すべき」 と吐いたと伝えています。 (参考: 源義経の腰越状~頼朝と義経の対立:満福寺~ ) 満福寺 では、 「腰越状」 の下書きと伝わるものや、 義経の物語を描いた襖絵を見ることが出来ます。 京に帰った 義経 は、叔父行家と接近するようになります。 行家といえば伊豆配流中の 頼朝 のもとに以仁王の令旨を届けた人物として知られていますが・・・ 頼朝 や 義経 の兄弟義円を討死にさせ、木曽義仲と 頼朝 との関係を悪化させるなど、なかなかの問題人物です。 京で不穏な動きが漂いはじめると、9月2日、 頼朝 は 梶原景季 を京に派遣し 義経 の動向を探らせています。 景季 は京に到着するとすぐに 義経 を尋ねますが、病気を理由に対面することはできなかったといいます。 対面できたのは、二日後のことで、かなり憔悴しきった様に 景季 には見えたようです。 しかし、鎌倉の 頼朝 は、これを仮病と判断し、 義経 を討つことを決意します。 そして、10月9日、土佐坊昌俊を刺客として京に送り込むことが決定されました。 『吾妻鏡』に

湘南の海と富士山

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多くの画家が描いた湘南からの富士山。 きれいです。 稲村ヶ崎 から 片瀬漁港 と富士 江ノ島 から 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html