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敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~

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1008年(寛弘5年)11月1日、 土御門殿 では中宮・ 藤原彰子 が産んだ 一条天皇 の第二皇子・ 敦成親王 の誕生五十日の祝いが行われました。 「五十日の祝い」(いかのいわい)は「松の餅」とも呼ばれ、生誕50日目の夜に父親又は祖父が餅を赤子の口に含ませる儀式。 几帳で仕切られた南面の廂の間には、 彰子 と 敦成親王 の御膳が供えられていました。 彰子の給仕役は宰相の君讃岐( 藤原豊子 )。 敦成親王の給仕役は大納言の君( 源廉子 )。 紫式部 には、敦成親王の小さい御膳台やお皿などが雛遊びの道具のように見えたようです。 そして、禁色の着用を許された少輔の乳母が 敦成親王 を抱き、御帳台の内で裳唐衣を着た 源倫子 が抱きとります。 彰子 は、葡萄染めの五重襲の袿に蘇芳の御小袿を着ていました。 祖父の 藤原道長 は餅(もちい)を供しています。 ※画像は越前市の 紫きぶ七橋 のレリーフ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 女房たちが、二列あるいは三列ずつにずらりと並んでいるところには酔っ払いも出現。 大納言の君 ・ 宰相の君 ・ 小少将の君 ・ 宮の内侍 といった彰子が信頼している女房たちのところへは・・・ 右大臣の 藤原顕光 が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れ、 「いい年をして」と批難されているにもかかわらず、女房の扇を取り上げて、みっともない冗談を言っていたらしい。 中宮大夫の 藤原斉信 は、盃を持って、顕光の前に出て、催馬楽の美濃山を歌ったりして、酔っ払いを収めてしまったのだとか。 柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えて観察していたのは右大将の 藤原実資 。 紫式部 が声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。 左衛門督の 藤原公任 は・・・ 「失礼ですが、この辺に若紫はいらっしゃいますか」 と紫式部を探している様子。 「ここには 光源氏 らしき人がいなのに、どうしてあの 紫の上 (若紫)がいるだろうか・・・」 と思って聞き流したのだとか。 実は、これが文献上で 『源氏物語』 が初めて登場した場面らしい( 📎藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日 )。 道長 に「盃を受けよ」と言われた三位亮の藤原実

一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~

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1008年(寛弘5年)10月16日、 一条天皇 は生まれたばかりの 敦成親王 と対面するため 土御門殿 に行幸。 行幸近きころ、 土御門殿 は 一条天皇 を迎える準備が進められ、邸内は美しい菊で飾られます。 そして行幸の日。 藤原道長 は新造の二艘の竜頭鷁首(りょうとうげきす)の舟を池辺に漕ぎ寄せて検分。 行幸は辰の時(午前八時頃)。 女房たちは早朝から化粧をして準備し、 紫式部 の親友・ 小少将の君 が里から帰参。 紫式部 は、辰の時とはいっても日中になってしまうだろうとのんびりしていたが、合図の鼓の音を聞いて急いで参上したらしい・・・ 道長 が 敦成親王 を抱いて 一条天皇 の御前へ。 一条天皇が敦成親王を抱き取るときに、少し泣いたのが可愛いらしかったのだとか。 日が暮れて、一条天皇の御前で管弦の御遊が始まります。 右大臣の 藤原顕光 が「若君の泣き声には万歳楽がよく合います」と申し上げると、 左衛門督の 藤原公任 などが「万歳、千秋」と声を合わせて朗詠。 道長 は「これまでの行幸も名誉なことだったが、今日の行幸はめでたく素晴らしい行幸だった」 と感じ入って酔い泣きしたのだとか。 夜も更けると、 一条天皇 は還御しています。 ※画像は越前市の 紫きぶ七橋 のレリーフ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 水鳥を 水の上とや よそに見む われも浮きたる 世を過ぐしつつ この歌は 紫式部 が詠んだ歌。 邸内の素晴らしい光景を目にしても心が晴れないでいた紫式部。 日ごろから出家を願っていたことから、物思いを深くしてしまっていたらしい。 📎水鳥を…一条天皇の土御門行幸が近くに詠んだ歌 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~

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「産養」(うぶやしない)は、生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝宴。 1008年(寛弘5年)9月11日、 土御門殿 では中宮・ 藤原彰子 が 一条天皇 の第二皇子・ 敦成親王 を出産。 9月13日に中宮職、9月15日に 藤原道長 、9月17日に朝廷、9月19日に 藤原頼通 の主催で「御産養」が催されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 5日目(9月15日)の夜は 藤原道長 の御産養。 紫式部 は『紫式部日記』には・・・ 道長の権勢に何もわからないまま従っている下役たちが、まるで自分の手柄のように「めでたさに酔っている」様子が描かれています。 そして、 彰子 の御前の様子の素晴らしさを他の人にも見せたい 紫式部 は・・・ 宿直の僧が伺候している屏風を開けて 「このようにとてもめでたいことは御覧になったことはないでしょう」 と言うと、僧たちは 「もったいない」 と言いながら本尊をそっちのけにして手を摺り合わせて喜んでいたのだとか。 ※画像は越前市の 紫きぶ七橋 のレリーフ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ (若宮御誕生の祝宴の盃は満月のように欠けることなく人々の手から手へと千年もめぐり続けるでしょう) めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ ちよもめぐらめ この歌は、この日、 紫式部 が詠んだ歌。 のちに栄華を極めた 道長 が詠んだ 「望月の歌」 は、この歌を真似たという説も・・・ 📎めづらしき・・・後一条天皇の御産養のときの歌 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 7日目の夜の「御産養」では、 勧学院 の学生たちも参上。 勧学院は、藤原氏出身の 大学寮 学生のための寄宿舎。 藤原氏の氏の長者の家に慶事があったときには、 勧学院 の学生一同が整列して練り歩いて慶事に参列したのだか。 「勧学院の歩み」と呼ばれていたらしい。 ※画像は越前市の 紫きぶ七橋 のレリーフ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

藤原彰子の出産~敦成親王誕生・道長の栄華の始まり:紫式部日記~

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1008年(寛弘5年)正月、懐妊が明らかとなった 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 は、7月16日、お産のために 土御門殿 へ里下がりします。 『紫式部日記』によると、 彰子 の出産は9月10日未明から11日の正午まで1日半にも及ぶものでした。 7日経っても顔がやつれ疲れ切った様子だったのだといいますが、父 藤原道長 をはじめとする周囲の期待から解放されて寝息をたてている 彰子 を見た 紫式部 は・・・ 「頼りなく、幼く、かわいらしげ」 と感じたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『紫式部日記』によると・・・ 土御門殿 には、8月20日過ぎ頃から宿直する者が多くなり、橋廊の上や対の屋の簀子などで仮寝をしながら、とりとめもない遊び事をして夜を明かしていたそうです。 琴や笛の演奏などもある一方で僧たちの読経の競い合いもあり、場所が場所だけに面白く感じられたようです。 藤原斉信 ・源経房・源憲定・源済政などが演奏する夜もあったのだとか。 9月9日・・・ 月が美しい夜、彰子の御座所には 小少将の君 や 大納言の君 などが伺候。 彰子 は、いつもより苦しそうな様子でしたが、8月26日に調合された薫物の香りをゆっくり味わせていました。 そして、加持の時間になり彰子は別の部屋へ・・・ 紫式部 は少し休もうと横になっていると寝てしまったらしい。 すると、夜中になって人びとが大声で騒ぎ始める・・・ 9月10日・・・ 明け方、御座所のしつらいが浄白に替えられ、 彰子 は白木の御帳台に入ります。 道長 や彰子の兄弟などが忙しく働き、とても落ち着かない状況。 彰子が不安そうにしている中、彰子にとりついている物の怪を憑坐に駆り移しての調伏が行われる・・・ 土御門殿 には、彰子の懐妊以来、仕えていた大勢の僧侶をはじめ、山々や寺々を探し求めた修験者、ありとあらゆる陰陽師も参集していました。 紫式部 は三世の仏もどんなに空を翔け回っているだろうか・・・ 八百万の神々も願いを聞いてくれるだろう・・・ と感じたらしい。 9月11日・・・ 明け方、 彰子 は日の当たらない廂の間に移ります。 加持のため雅慶僧正や定澄僧都、法務僧都の済信などが伺候。 院源僧都は、道長が前日に書いた安産の願文に、さらに尊