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6月 12, 2022の投稿を表示しています

小田原城址公園のアジサイとハナショウブ2022/06/18

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☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉アジサイの名所

日向薬師参道「日陰道」~頼朝が大姫の病気快復を祈りながら歩いた道~

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1194年(建久5年)7月29日、 源頼朝 の長女・ 大姫 が危篤状態に陥ります。 八方手を尽くしますが、一向によくなりませんでした。 そこで、頼朝は「この国に2つとない効験のある薬師如来」の参詣を思い立ち、8月8日の早暁、 日向薬師 に向けて出発します。 そして、仏に祈った後、夜になって帰ったそうです。 源頼朝駒つなぎの松 源頼朝 が 日向薬師 を参詣する際に、乗っていた馬をつないだ所。 現在の松は三代目。 日陰道 日陰道 は、下馬した頼朝が歩いたという 日向薬師 の参道。 頼朝が歩いた古道 源頼朝 は、長女 大姫 の病気回復を願って参拝した 日向薬師 (霊山寺)。 大姫 は、1183年(寿永2年)に 木曽義仲 の嫡男・ 義高 と婚約。 大姫が6歳、義高が11歳の時でした。 しかし翌年、頼朝は 木曽義仲 を討伐し、義高も殺してしまいます。 それから大姫は病気となり生涯よくなることはなかったといいます。 そして、1197年(建久8年)7月14日に亡くなっています。 日向薬師には 北条政子 も数回参詣し、秋の 「道灌まつり」 では「北条政子日向薬師参詣行列」が行われます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源範頼が源頼朝に提出した誓いの文書

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1193年(建久4年)5月28日、 源頼朝 が催した 富士裾野巻狩り の最中に 曽我兄弟の仇討ち 事件が発生しました。 『保暦間記』によると、 鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する 北条政子 に頼朝の弟 範頼 は「私がいるから心配ない」と発言。 これを知った頼朝は、範頼の謀叛を疑ったのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1193年(建久4年)8月2日、兄の 源頼朝 に謀叛の疑いを持たれてしまった 源範頼 は、誓の起請文を提出しました。 その内容は、 謹んで申立ていたします。 私は、頼朝様の代官として、度々戦場へと向かい、朝敵を滅ぼす忠義を尽くしました。 以来、二心など持っておりません。 御子孫の将来にも、同じように貞節を守る所存です。 頼朝様のお心に従っている事は、これまで頂戴した書状にも書かれています。 その書状は、箱の底に秘蔵しております。 しかし、今になって、誤りを犯していないにもかかわらず、謀叛の疑いをかけられてしまい、不便なことです。 いずれにしましても、現在も将来も不忠の思いは持ちません。 子孫にも、この事を直ちに話し聞かせておきます。 万が一にも、この書状の内容に背くようなことがあれば、天界では梵天・帝釈天、下界では伊勢神宮・春日大社・賀茂神社、そして源氏の氏神八幡大菩薩の神罰が源範頼に下されるでしょう。 建久四年八月 日 三河守源範頼 この書状を読んだ頼朝は 「源の文字が書かれているのは、一族として考えているのであろうか? それは身分不相応な考えである。 起請文の内容が偽りであることを示している」 として、範頼の使者に伝えるよう命じています。 大江広元 が、そのことを使者の大夫属重能に伝えると、重能は、 「範頼は、故 源義朝 殿の御子息です。 頼朝様は御舎弟であることをご存じのはずです。 頼朝様は、去る元暦元年(1184年)秋、範頼が平家討伐の代官として上洛した時には、『弟の範頼を九州に派遣する」ことを 後白河法皇 に奏聞しています。 その内容は命令書にも載せられています。 全く勝手に行ったわけではありません」 と弁明したとのこと。 それに対する頼朝の言葉はなかったそうです。