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12月 12, 2010の投稿を表示しています

除夜の鐘と鎌倉の名鐘

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12月31日(大晦日)の夜から1月1日にかけて撞かれる鐘を「除夜の鐘」と呼びます。 108回の鐘が撞かれますが、そのうち107回までを旧年中に撞き、残りの1回を新年に撞くというのが一般的な作法のようです。 108 という数については・・・ 「煩悩の数」 とする説が多く語られているようですが、 かなり複雑な計算によって導き出されたものもあります。 (眼・耳・鼻・舌・身・意)の 6 に、(苦・楽・不苦不楽)の 3 を掛けます。 6×3 =  18 続きまして・・・ この18に(貧者と無貧者)の 2 を掛けます。 18×2= 36 さらにこの36に(過去・現在・未来)の 3 を掛けます。 すると・・・36×3= 108 そして、一年十二ヶ月・二十四気・七十二候の和であるという説もあります。 (12+24+72= 108 ) ~鎌倉を代表する梵鐘~ 円覚寺の梵鐘(洪鐘) 鎌倉最大の梵鐘。九代執権 北条貞時 が 江ノ島 に参籠して鋳造に成功させたという伝説の梵鐘で、「国宝」に指定されています。 この鐘を吊す鉄環は、名刀正宗で知られる 刀工正宗 の作と伝えられています。 建長寺の梵鐘 「関東一の美しさ」といわれる梵鐘で、「国宝」に指定されています。 五代執権 北条時頼 の寄進。撰文は開山の 蘭渓道隆 。 建長寺 創建当時の貴重な遺品です。 東慶寺の梵鐘 材木座の 補陀洛寺 から移された梵鐘です。分捕り品となって土中に埋められた鐘を、のちに農民が掘り出したものと伝えられています。 もともとの 東慶寺 の梵鐘は、伊豆韮山の 本立寺 にあります。 本覚寺の梵鐘 本覚寺 開山の日出が、木更津八幡宮別当との論争に勝利して得た梵鐘です。 「石渡造左衛門という者が担いで持って帰ってきた」という伝説が残されています。 この外、鎌倉最古の梵鐘といわれる 常楽寺 の梵鐘は、 鎌倉国宝館 に寄託されています。 長谷寺 の梵鐘も 常楽寺 ・ 建長寺 に次ぐ古鐘ですが、現在は 長谷寺 の宝物館に置かれています。 ~除夜の鐘がつける寺~ 大船観音寺 (23時から先着順に整理券配布) 浄智寺 (先着108名:23時から整理券配布) 長谷寺

長谷寺の歳の市

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12月18日は 長谷寺 の 「歳の市」 です。 鎌倉で 「歳の市」 が開かれるのは 長谷寺 だけとなりました。熊手・達磨・神棚という縁起物をはじめとした多くの露店が 長谷寺 の参道に並びます。 長谷寺観音堂 午前11時から御祈祷の法要が行われます。 12月18日は、観音さまと五色の紐で結ばれる特別な日です。 「お手綱」(おてづな)と呼ばれる紐に触れながら参拝すれば、 観音さまとより近い縁で結ばれるそうです。 たくさんのお線香です。 門前には露店が並びます。 熊手 達磨 神棚 川戸のおやじさん 熊手を売っているのは、川戸のおやじさん。 観音堂の前では、「福寿草市」が開かれています。 センリョウやマンリョウの市もやってます。 鎌倉「冬紅葉」。 カエデの紅葉がきれいです。 昔から縁起物の売り買いは交渉です。交渉が成立するとお祝いの「シメ」です。いろんなシメがあるのでしょうが・・・「ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨヨヨイ ヨイ」とかねぇ~・・・。いいですねぇ~。

御鎮座記念祭~鶴岡八幡宮の御神楽~

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鶴岡八幡宮 の 「御鎮座記念祭」~御神楽~ は、京都の 石清水八幡宮 の祭神を迎えるために執り行われた儀式を再現したもので、毎年12月16日に行われます。 鶴岡八幡宮 は、1063年(康平6年)8月、奥州を平定して鎌倉に帰った 源頼義 が、京都の石清水八幡宮を由比鶴岡に勧請したのがはじまりです(参考: 元八幡 )。 1180(治承4年)10月6日、鎌倉入りを果たした 源頼朝 は、10月12日には由比鶴岡の八幡宮を現在地に遷座します。 しかし、1191年(建久2年)3月4日、小町大路付近で発生した火災で、火の粉が五重塔に移り、社殿はことごとく焼失してしまいます(参考: 鶴岡八幡宮の五重塔 )。 頼朝 は直ちにその復興に着手し、現在の上下両宮の姿に再建しました。 そして、11月21日、あらためて石清水八幡宮を勧請しています。 鶴岡八幡宮 上宮(本宮) その遷宮の日である11月21日を、陰暦から陽暦に換算した12月16日に 〈御鎮座記念祭〉 は行われます。 1191年(建久2年)11月21日の遷宮の日、 頼朝 は京都より雅楽家の多好方(おおのよしかた)を招いて「遷宮の儀」を執り行っています。 『吾妻鏡』には、「好方、宮人曲を唱し、頗る神感の瑞相あり・・・」と記されています。 午後5時になると、宮司以下神職が大石段を上り、上宮で祭典が執り行われます。 祭典が終わると宮司らが大石段を下りて、 舞殿 北側に特設された祭場に着席します。 「御火台(みひひろく)を奉れ」 と唱えられると、篝火に火が点じられます。 火が燃え上がると、「宮人曲」が唱えられます。 そして、巫女4人による舞(宮人の舞)が奉納され、続いて、宮中武官衣装の神職による舞楽「人長の舞」が奉納されます。 ※「人長」(にんちょう)というのは、御神楽の舞人の長のことをいいます。 静寂の中、篝火が焚かれ、多好方が唱えたという「宮人曲」が復元され、舞が奉仕される様は、かなり感動的でした。 写真がよくないので、その素晴らしさが伝わりませんが・・・。 京より招かれた多好方は、 鶴岡八幡宮 の楽人らに「宮人曲」を伝授し、飛騨国荒木郷を与えられたそうです。 ※ 畠山重忠 と 梶原景季 は、 頼朝 の命によって、多好方から雅楽

黒部宮~源頼朝の勧請と伝わる神社:平塚市~

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黒部宮は1191年(建久2年)、 源頼朝 によって勧請されたと伝えられ、翌年には、 頼朝 の妻 政子 の安産を祈願して神馬が奉納され、御産加持が命ぜられています。 黒部宮 現在平塚市内にある春日神社の元宮に当たります。 かつては、範隆寺が別当を務め門前も栄えていましたが、 海岸に近かったことから波浪の度に流され、 居住者は、範隆寺とともに現在の春日神社のある地へ移住したといいます。 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/hiratuka-yuritomo/kurobe.htm 黒部宮は同じ場所に残されています。  濱嶽神社 近くにある濱嶽神社は、黒部宮を元宮とする春日神社の分神です。  政子安産の祈願所(鎌倉手帳) http://www8.plala.or.jp/bosatsu/anzan.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

平等寺~源頼朝が祈願した真言宗の古刹:平塚市~

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平等寺は真言宗東寺派の古刹で、1192年(建久3年)、 源頼朝 が妻 政子 の安産祈願をしたことで知られています。  平等寺 1192年(建久3年)8月9日、早朝から政子が産気づいたため、 頼朝 は 鶴岡八幡宮 と相模国の 27ヶ所の神社仏閣 に神馬を奉納し、 御産加持を命じました。 このとき、生まれた子がのちの三代将軍 源実朝 です。 https://www.yoritomo-japan.com/hiratuka-yuritomo/byodoji.htm 政子安産の祈願所(鎌倉手帳) https://www.yoritomo-japan.com/anzan.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

貴船神社~源頼朝が祈願した「泣き荒神」:平塚市城所~

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貴船神社 には、 源頼朝 が祈願したという三面大荒神が祀られています。 頼朝 は、1192年(建久3年)、妻 政子 の安産祈願のために、この地にあった常蘇寺に神馬を奉納し、祈祷を命じます。 しかし、生まれた子が夜泣きをするので、観音堂に祀られていた三面荒神に祈願すると夜泣きが止んだと伝えられています。 貴船神社 平安後期から鎌倉、南北朝時代と、約200年に亘ってこの地を治めた、城所氏の鎮守として創建されたと伝えられています。 1192年(建久3年)、 源頼朝 は、妻 政子 の安産祈願のため、 貴船神社 境内にあった常蘇寺に祈祷を命じます。 無事に生まれた子がのちの三代将軍 源実朝 です。 📎政子安産の祈願所 三面大荒神社 荒神さまは、常蘇寺の観音堂に祀られていたといいます。 別名を「泣き荒神」といいます。 源頼朝 は、生まれた子が夜泣きをするので、この荒神さまに祈願したところ、夜泣きが止んだと伝えられています。 牛の石像 三面大荒神社の前に置かれた牛の石像は、日露戦争のときに牛を奉納した記念に建立したものなのだそうです。 平塚市のホームページ「ひかつか図鑑」によると・・・ 牛は関東大震災後に行方不明になり、翌年から村に疫病が流行しました。 捜しても見つからないので、おきぬさんという祈祷師に見てもらうと、お告げのあった場所から牛が掘り出され、三面大荒神に納めました。 すると、疫病はピタリと止んだといいます。 このように、牛の石像にはあらたかな霊性が込められています。 貴船神社の裏からは美しい大山が望めます。 ~城所城の跡~ 浄心寺 貴船神社 の近くにある曹洞宗の寺です。 この寺の背後に城所城があったと伝わっています。

平家の滅亡

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1184年(寿永3年)1月、 源頼朝 は正式に平氏追討の勅命を受けます。 一方、都落ちをした平家一門は、一時、九州太宰府まで落ちのびますが、徐々に勢力を盛り返し、かつて 平清盛 が夢みた都「福原」まで東進していました。 ~後白河法皇の使者~ 2月6日、福原で 平清盛 の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、 後白河法皇 の近臣の使者が文書を携えて到着します。 文書には、 「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」 という内容のものだったといいます。 平家方はこれを信じていたのですが、翌7日には源氏の総攻撃が開始されたといいます。 ~一ノ谷の合戦~ 生田ノ森 からは 源範頼 が、 一ノ谷 からは安田義定が、そして、背後の山からは 源義経 が攻撃を仕掛けたことでは平家軍は大混乱となり、 多くの大将が討ち取られ、 平重衡 が生け捕りにされました。 討ち取られた大将の中には、16歳の平敦盛もいました。 これが、有名な 「一ノ谷の合戦」 です。 この合戦は、 源義経 の 「鵯越の奇襲攻撃」 が中心に語られがちですが、合戦そのものが奇襲であり、悪く言えば「騙し討ち」であったと考えられます。 一ノ谷の合戦後、武士の横領・狼藉の禁止令の発布と、その実行を 頼朝 が行う旨の勅令が出されます。これによって、 頼朝 は全国の武士の頂点に立ちます。 ~平氏滅亡~ 一ノ谷の合戦 で敗れた平氏は、 屋島 にのがれていました。 当初、 頼朝 は 義経 を起用して平家を攻めようと考えていましたが、このころから後白河法皇の 義経 登用が目立つようになり、 ついに 義経 は、 頼朝 の許しなく検非違使に任官してしまいます。 怒った 頼朝 は、 義経 を解任して、範頼を総大将として西上させることとしました。 (この対応には諸説あるようです。) 9月に京を発った 範頼 の東国軍は、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達しています。 しかし、士気は衰え、侍所別当の 和田義盛 が「関東に帰りたい」などと言う始末であったといいます。 こうした状況の中で 頼朝 は、再び 義経 を起用することにします。 1185年(元暦2年)2月17日、 義経 は風雨のなか出