源頼朝の愛馬・生食と磨墨と宇治川の先陣争い~木曽義仲追討~
1184年(寿永2年)1月、 源頼朝 は、弟の 範頼 と 義経 に 木曽義仲 追討を命じます。 1月20日、 義経 は宇治川から京へと入ります。 このとき繰り広げられたのが 佐々木高綱 と 梶原景季 の先陣争い。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 佐々木高綱 は、近江源氏・佐々木秀義の四男で、頼朝の 挙兵 時に活躍した佐々木四兄弟の一人。 梶原景季 は、 石橋山の戦い で敗れた頼朝を助けたと伝えられている 梶原景時 の嫡男。 2人は、出陣前に 頼朝 から名馬を与えられていました。 高綱 が「生食」(いけづき)、 景季 が「磨墨」(するすみ)。 『平家物語』によれば・・・ 景季 は、 頼朝 に「生食」を所望します。 しかし・・・ 頼朝は「この馬は万が一の時に甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」といって「磨墨」を与えました。 磨墨像 (東京大田区: 万福寺 ) ところが 頼朝 は・・・ 出陣する際に挨拶にきた高綱に「生食を所望する者は大勢いるが・・・」といって「生食」を高綱に与えてしまいます。 感激した高綱は、 「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。 もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。 生きているとお聞きになられたならば、先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」 といって 頼朝 の前を下がったのだとか。 生食像 (東京大田区: 洗足池 ) その後、進軍する追討軍の中で、 高綱 が「生食」に乗っていることを知った 景季 は、「頼朝から恥辱を与えられた」として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。 しかし、 高綱 が機転を利かせて「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」と言うと、 景季 は「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」と言って笑ったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~宇治川の先陣争い~ 宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。 宇治川をどのように渡河するか 義経 が考えていると、 畠山重忠 が「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎の轡を並べていました。