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鎌倉:光則寺参道の桜2011

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光則寺 参道のソメイヨシノです。 ソメイヨシノが終わる頃と本堂前の カイドウ が満開になります。 門前のハクモクレンが満開でした。 鎌倉:桜の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sakura-kamakura.htm 伝説の桜~鎌倉~ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sakura-densetu.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

三浦氏の滅亡~法華堂跡~

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源頼朝墓 の東側の山裾には、 宝治合戦 で敗れた 三浦泰村 一族の遺骸を納めたという「やぐら」があります。 三浦一族墓 (法華堂跡) 三浦氏 は桓武平氏の流れをくむ板東八平氏の一つで、三浦半島一帯に勢力をのばしていました。 三浦義明 は、 源頼朝 が挙兵すると 石橋山 に兵を派遣し、その子 義澄 は安房に渡った 頼朝 を助け、 頼朝 の鎌倉入りに大きな功績を残しました。 義澄 は、 鶴岡八幡宮 で、 頼朝 の征夷大将軍の辞令を受け取る役目を果たしています。 義澄 の子 義村 は、 畠山重保の殺害 、 和田合戦 、 将軍源実朝の暗殺事件 などに深く関与したと考えられ、 三浦氏 の安泰のためには手段を選ばない武将だったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~宝治合戦~ 三浦氏 の勢力が増すにつれ、御家人の中では三浦氏への反感が強くなり、中でも 安達氏 の 三浦氏 に対する憎悪はかなりのものだったようです。 そうした中、1246年(寛元4年)3月23日、 北条時頼 が五代執権の座に就きます。 時頼 の母は 安達景盛 の娘松下禅尼。 時頼 に質素倹約を教えたとして知られていますが、 時頼 は母方の実家 安達氏 を頼りにしていたものと思われます。 時頼 が執権になると、出家して高野山に籠もっていた 安達景盛 が鎌倉に戻り、 三浦氏 との戦いのための準備を始めます。 その時の 三浦氏 の当主は 泰村 でした。 鶴岡八幡宮 には「 三浦泰村 が討伐される」との立札が建てられます。 誰の仕業かわかりませんが、これによって 泰村 も兵を集めます。 合戦になるまで、 時頼 と 泰村 は手紙のやりとりなどをしていたようですが・・・ 1247年(宝治元年)6月5日、 安達景盛 が子の義景や孫の 泰盛 に命じて三浦邸を襲撃しました。 これが 宝治合戦 です。 合戦の先端が開かれたのは 筋違橋 だったといわれています。 筋違橋碑 当時、執権 北条時頼 は 小町亭 (現 宝戒寺 )にいたと考えられ、 三浦泰村 邸は横浜国立大学付属小中学校辺りにあったといいます。 お互いの邸は、かなりの近距離であることがわかります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 合戦の結果、 三浦泰村 は敗れ、 頼

報国寺の戦没者追悼歌碑(北条・新田合戦)

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竹の寺 として知られる 報国寺 には、新田義貞の鎌倉攻めの際の戦死者への追悼歌碑が建てられています。 追悼歌 いさをしも槍も刃も 埋もれて梢に寒し 松風の 音 華の世を所業つたなく 散る君に香一片を 焚きておろがむ 歌碑の下段には、戦死者の遺骨を改装したことが刻まれています。 元弘三年五月 北条一族と新田勢が 合戦の折両軍戦死者 の遺骨を由比ヶ浜より この地の改装す 昭和40年秋 当山現住菅原義道建立 1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞は 稲村ケ崎 から鎌倉に攻め込みます。 鎌倉の街で激戦が繰り広げられた末、 東勝寺 に逃げ込んだ 北条高時 をはじめとする北条一族約870余名が自刃したことで鎌倉幕府が滅亡します(参考: 鎌倉幕府の滅亡 )。 稲村ケ崎 (左)と 東勝寺 (右) 九品寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135kuhonji.htm 鎌倉に攻め入った新田義貞は、 九品寺 辺りに本陣を布いたといいます。 九品寺 は鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺です。 弁谷(べんがやつ) https://www.yoritomo-japan.com/page135bengayatu.htm 材木座 補陀洛寺 の東側の谷は弁ヶ谷と呼ばれ、 北条高時 の建てた崇寿寺があったといいます。 新田勢が攻め入ってくると、 高時 の御内人長崎高重は崇寿寺に赴き、南山和尚に「武士とは何か。」と問います。 和尚は「武士とは刀に頼って進む以外ない。」と答えたといいます。 その後、新田勢と大いに戦った高重は、高時のいる 東勝寺 に戻り、自刃をすすめたといいます。 鎌倉簡易裁判所にある首塚 昭和28年、ここに簡易裁判所を建設する際に、千体にもなる骨が出土しました。 新田義貞の鎌倉攻めの際の戦没者と考えられています。 報国寺 https://www.yoritomo-japan.com/page042hokokuji.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

北条時宗の命日~時宗公毎歳忌~

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1284年(弘安7年)4月4日、八代執権 北条時宗 は満33歳という若さでこの世を去りました。 毎年4月4日には 円覚寺 塔頭 佛日庵 で 時宗祭 が執り行われます。 佛日庵 https://www.yoritomo-japan.com/tera-emgakutatyyu-butunitian.htm 時宗 は、1251年(建長3年)5月15日、長谷甘縄の 安達景盛 邸で生まれたといわれています。 父は五代執権の 北条時頼 、母は北条重時の娘。 甘縄神明神社 の 北条時宗公産湯の井 安達盛長邸址碑 (甘縄神明神社) https://www.yoritomo-japan.com/page136adati-tei.htm 安達盛長 は、 源頼朝 に仕えた武将で、 安達景盛 は盛長の長男です。 安達邸が甘縄のどこにあったのかは定かではありませんが、 甘縄神明神社 の近辺といわれています。 時宗 の父 時頼 は、 安達景盛 の娘 松下禅尼 を母としています。 聖福寺跡碑 https://www.yoritomo-japan.com/page136shofukuji.htm 時宗 の幼名は「正(聖)寿丸」といいました。 嫡男であったことから「相模太郎」とも呼ばれていました。 稲村ヶ崎の聖福寺は、 北条時頼 が二人の息子(正(聖)寿丸(=時宗)と福寿丸(=宗政))の息災延命を祈願して建てた寺と伝わっています。 ・・・・・・・・・・・・・・ ~時頼の定めた子息の序列~ 時宗 には異母兄の時輔がいましたが、父 時頼 は子息の序列を定め、 時宗 、宗政、時輔の順にします。 時輔は、元寇前の1272年(文永9年)に起こった 二月騒動 で討たれています。 ・・・・・・・・・・・・・・ 1257年(正嘉元年)、七歳で元服し六代将軍 宗尊親王 の一字をもらって「時宗」と名乗ります。 1261年(弘長元年)、安達義景の娘堀内殿と結婚(11歳)。堀内殿とは、時宗の死後、 東慶寺 を建立した覚山尼のことです。 1264年(文永元年)、十四歳で 連署 に就任します。 そして、日本にはモンゴル帝国(元)の侵攻という国難が降りかかってきます。 そんな中、1268年(文永5年)、 時宗 は

北条政子と源実朝の墓~壽福寺~

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鎌倉五山 第三位を誇った 壽福寺 には、 源頼朝 の妻で尼将軍とも呼ばれた 北条政子 と、二人の間に生まれ、三代将軍となった 源実朝 の墓と伝えられている「やぐら」があります。 ~北条政子の墓~ 北条政子の五輪塔 政子 は、伊豆国韮山で 北条時政 の長女として誕生し、 源頼朝 の正室となります。 壽福寺 は、 政子 が栄西を招いて建立した寺と伝えられています。 ~三代将軍源実朝の墓~ 源実朝の五輪塔 実朝 は、 源頼朝 と 北条政子 の二男として誕生し、 比企の乱 で兄 頼家 が 修禅寺 に幽閉されると三代将軍に就任しました。 しかし、政治の実権は母 北条政子 や二代執権 北条義時 に握られ、蹴鞠や和歌にふける毎日を送っていたようです(参考: 『金槐和歌集』 )。 最期は甥の公暁によって暗殺されてしまいます(参考: 源実朝の暗殺 )。 実朝 の五輪塔が置かれている「やぐら」は、牡丹唐草の模様が彩色されていたことから「唐草やぐら」とか「えかきやぐら」と呼ばれていたそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 他にもある北条政子と源実朝の墓 大町の 安養院 は、 北条政子 が 源頼朝 の菩提を弔うために建てたという笹目 長楽寺 をその前身としているといいます。 安養院 本堂の裏には、国の重要文化財に指定されている尊観の宝篋印塔に並んで、 北条政子 のものと伝わる宝篋印塔が建てられています。 北条政子の宝篋印塔 秦野市の金剛寺の近くには 源実朝公御首塚 があります。 金剛寺は、暗殺された 源実朝 の首を葬ったことがそのはじまりとされています。 源実朝公御首塚 もとは「木造の五輪塔」が建てられていましたが、その五輪塔は 鎌倉国宝館 に寄託されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 実際に二人が葬られた場所は・・・ 勝長寿院跡 源頼朝 は、父 義朝 の菩提を弔うために 勝長寿院 を建立しています。 北条政子 や 源実朝 が実際に葬られたのは、この 勝長寿院 と考えるのが妥当なのかと・・・。

太田道灌の首塚

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源氏山 から 壽福寺 の墓地へ下っていく道の途中に戦国武将太田道灌の 首塚 といわれる供養塔があります。 首塚 (鎌倉市) 太田道灌齋大居士と刻まれています。 太田道灌は、江戸城を築いたことで知られ、現在、 英勝寺 のある地に屋敷があったと伝えられています。 扇谷上杉家の家宰(筆頭重臣)として活躍しますが上杉定正によって暗殺されました。 参考: 扇谷上杉管領屋敷跡 道灌塚 (伊勢原市・洞昌院) 道灌の墓 (伊勢原市・大慈寺) 太田道灌は、扇谷上杉家と山内上杉家の争いに巻き込まれ、主君上杉定正によって暗殺されてしまいます。 道灌は襲われたとき「当方滅亡」と言い残します。 これは「扇谷上杉家は滅びる」という予言だったといいます。 のちに、小田原北条氏が台頭してくると扇谷上杉家は滅ぼされ、山内上杉家も鎌倉から離れることになります。 太田道灌像 (伊勢原市役所) 英勝寺 英勝寺 開山の英勝院尼は、道灌から数えて四代目の康資の娘といわれています。 徳川三代将軍家光より道灌の旧跡を譲り渡され 英勝寺 が建立されました。 伊勢原市最大のイベント