追悼歌 いさをしも槍も刃も 埋もれて梢に寒し 松風の 音華の世を所業つたなく 散る君に香一片を 焚きておろがむ |
歌碑の下段には、戦死者の遺骨を改装したことが刻まれています。
元弘三年五月 北条一族と新田勢が 合戦の折両軍戦死者 の遺骨を由比ヶ浜より この地の改装す 昭和40年秋 当山現住菅原義道建立 |
1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞は稲村ケ崎から鎌倉に攻め込みます。
鎌倉の街で激戦が繰り広げられた末、東勝寺に逃げ込んだ北条高時をはじめとする北条一族約870余名が自刃したことで鎌倉幕府が滅亡します(参考:鎌倉幕府の滅亡)。
九品寺 |
鎌倉に攻め入った新田義貞は、九品寺辺りに本陣を布いたといいます。
九品寺は鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺です。
弁谷(べんがやつ) |
材木座補陀洛寺の東側の谷は弁ヶ谷と呼ばれ、北条高時の建てた崇寿寺があったといいます。
新田勢が攻め入ってくると、高時の御内人長崎高重は崇寿寺に赴き、南山和尚に「武士とは何か。」と問います。
和尚は「武士とは刀に頼って進む以外ない。」と答えたといいます。
その後、新田勢と大いに戦った高重は、高時のいる東勝寺に戻り、自刃をすすめたといいます。
鎌倉簡易裁判所にある首塚 |
昭和28年、ここに簡易裁判所を建設する際に、千体にもなる骨が出土しました。
新田義貞の鎌倉攻めの際の戦没者と考えられています。
報国寺
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鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html