別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月5日火曜日

報国寺の戦没者追悼歌碑(北条・新田合戦)

竹の寺として知られる報国寺には、新田義貞の鎌倉攻めの際の戦死者への追悼歌碑が建てられています。


追悼歌
いさをしも槍も刃も
埋もれて梢に寒し
松風の
華の世を所業つたなく
散る君に香一片を
焚きておろがむ


歌碑の下段には、戦死者の遺骨を改装したことが刻まれています。

元弘三年五月
北条一族と新田勢が
合戦の折両軍戦死者
の遺骨を由比ヶ浜より
この地の改装す
昭和40年秋
当山現住菅原義道建立


1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞は稲村ケ崎から鎌倉に攻め込みます。

鎌倉の街で激戦が繰り広げられた末、東勝寺に逃げ込んだ北条高時をはじめとする北条一族約870余名が自刃したことで鎌倉幕府が滅亡します(参考:鎌倉幕府の滅亡)。


稲村ケ崎(左)と東勝寺(右)


九品寺

鎌倉に攻め入った新田義貞は、九品寺辺りに本陣を布いたといいます。

九品寺は鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺です。


弁谷(べんがやつ)


材木座補陀洛寺の東側の谷は弁ヶ谷と呼ばれ、北条高時の建てた崇寿寺があったといいます。

新田勢が攻め入ってくると、高時の御内人長崎高重は崇寿寺に赴き、南山和尚に「武士とは何か。」と問います。

和尚は「武士とは刀に頼って進む以外ない。」と答えたといいます。

その後、新田勢と大いに戦った高重は、高時のいる東勝寺に戻り、自刃をすすめたといいます。


鎌倉簡易裁判所にある首塚

昭和28年、ここに簡易裁判所を建設する際に、千体にもなる骨が出土しました。

新田義貞の鎌倉攻めの際の戦没者と考えられています。


報国寺
https://www.yoritomo-japan.com/page042hokokuji.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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