源頼朝墓の東側の山裾には、宝治合戦で敗れた三浦泰村一族の遺骸を納めたという「やぐら」があります。
(法華堂跡)
三浦氏は桓武平氏の流れをくむ板東八平氏の一つで、三浦半島一帯に勢力をのばしていました。
三浦義明は、源頼朝が挙兵すると石橋山に兵を派遣し、その子義澄は安房に渡った頼朝を助け、頼朝の鎌倉入りに大きな功績を残しました。
義澄は、鶴岡八幡宮で、頼朝の征夷大将軍の辞令を受け取る役目を果たしています。
義澄の子義村は、畠山重保の殺害、和田合戦、将軍源実朝の暗殺事件などに深く関与したと考えられ、三浦氏の安泰のためには手段を選ばない武将だったようです。
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~宝治合戦~
三浦氏の勢力が増すにつれ、御家人の中では三浦氏への反感が強くなり、中でも安達氏の三浦氏に対する憎悪はかなりのものだったようです。
そうした中、1246年(寛元4年)3月23日、北条時頼が五代執権の座に就きます。
時頼の母は安達景盛の娘松下禅尼。
時頼に質素倹約を教えたとして知られていますが、時頼は母方の実家安達氏を頼りにしていたものと思われます。
時頼が執権になると、出家して高野山に籠もっていた安達景盛が鎌倉に戻り、三浦氏との戦いのための準備を始めます。
その時の三浦氏の当主は泰村でした。
鶴岡八幡宮には「三浦泰村が討伐される」との立札が建てられます。
誰の仕業かわかりませんが、これによって泰村も兵を集めます。
合戦になるまで、時頼と泰村は手紙のやりとりなどをしていたようですが・・・
1247年(宝治元年)6月5日、安達景盛が子の義景や孫の泰盛に命じて三浦邸を襲撃しました。
これが宝治合戦です。
合戦の先端が開かれたのは筋違橋だったといわれています。
当時、執権北条時頼は小町亭(現宝戒寺)にいたと考えられ、三浦泰村邸は横浜国立大学付属小中学校辺りにあったといいます。
お互いの邸は、かなりの近距離であることがわかります。
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合戦の結果、三浦泰村は敗れ、頼朝の法華堂に籠もって、一族500余名とともに自刃して果てたと伝えられています。
ここに、鎌倉幕府創設に貢献し、頼朝の死後も幕府において重要な地位を占めていた有力御家人三浦氏が滅亡しました。
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~参考・・・三浦氏の傍流~
三浦氏の傍流にも歴史にのこる武将が多くいます。
杉本寺の裏山にあったという杉本城は、三浦義明の子杉本義宗によって築かれ六浦道を抑える要衝でした。
その子和田義盛は、頼朝から侍所別当に任じられています。
しかし、頼朝亡き後、三浦義村の裏切りに遭い最期を遂げています(和田合戦)。
三浦義明の弟岡崎義実は、頼朝の父義朝の居館跡(現在の壽福寺)に義朝の菩提を弔うための祠を建て、その子佐奈田義忠は、石橋山の合戦で頼朝に味方し見事な討死を遂げています。
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2022年の大河は北条義時