毎年4月4日には円覚寺塔頭佛日庵で時宗祭が執り行われます。
佛日庵 https://www.yoritomo-japan.com/tera-emgakutatyyu-butunitian.htm |
父は五代執権の北条時頼、母は北条重時の娘。
甘縄神明神社の北条時宗公産湯の井 |
安達盛長邸址碑(甘縄神明神社) https://www.yoritomo-japan.com/page136adati-tei.htm |
安達盛長は、源頼朝に仕えた武将で、安達景盛は盛長の長男です。
安達邸が甘縄のどこにあったのかは定かではありませんが、甘縄神明神社の近辺といわれています。
時宗の父時頼は、安達景盛の娘松下禅尼を母としています。
聖福寺跡碑 https://www.yoritomo-japan.com/page136shofukuji.htm |
時宗の幼名は「正(聖)寿丸」といいました。
嫡男であったことから「相模太郎」とも呼ばれていました。
稲村ヶ崎の聖福寺は、北条時頼が二人の息子(正(聖)寿丸(=時宗)と福寿丸(=宗政))の息災延命を祈願して建てた寺と伝わっています。
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~時頼の定めた子息の序列~
~時頼の定めた子息の序列~
時宗には異母兄の時輔がいましたが、父時頼は子息の序列を定め、時宗、宗政、時輔の順にします。
時輔は、元寇前の1272年(文永9年)に起こった二月騒動で討たれています。
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1257年(正嘉元年)、七歳で元服し六代将軍宗尊親王の一字をもらって「時宗」と名乗ります。
1261年(弘長元年)、安達義景の娘堀内殿と結婚(11歳)。堀内殿とは、時宗の死後、東慶寺を建立した覚山尼のことです。
1264年(文永元年)、十四歳で連署に就任します。
そして、日本にはモンゴル帝国(元)の侵攻という国難が降りかかってきます。
そんな中、1268年(文永5年)、時宗は18歳で八代執権の座に就きます。
モンゴル帝国の皇帝クビライは、二度にわたって日本を攻めますが、時宗は見事にこの難局を乗り切りました(参考:元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))。
常立寺にある元使塚 https://www.yoritomo-japan.com/jyoryuji.htm |
文永の役後、モンゴル帝国(元)は五人の使節を日本に派遣しますが、時宗はこの五人を龍ノ口で処刑します。
藤沢片瀬の常立寺には元使の五輪塔が建てられています。
円覚寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138engakuji.htm |
1282年(弘安5年)、時宗は元寇によって死んだ兵の菩提を弔うために円覚寺を建立します。
時宗は、文永の役(1274年(文永11年))後に、戦没者の慰霊のために円覚寺建立を思い立ったといわれています。
そして、弘安の役の翌1282年(弘安5年)に無学祖元を招いて落慶供養が行われました。
しかし、心労のためか1284年(弘安7年)4月4日亡くなります。
佛日庵 堂の下には、三人の遺骨を納めた石櫃があると伝えられています。 |
★太平寺:https://www.yoritomo-japan.com/page041taiheiji.htm
尼五山の一位だった太平寺(廃寺)は、時宗によって招かれた大休正念によって仏殿供養が行われたのがそのはじまりと伝えられています。
★明月院:https://www.yoritomo-japan.com/page138meigetuin.htm
父時頼の最明寺を時宗が蘭渓道隆を招いて再興し禅興寺としました。明月院はその禅興寺の支院です。
★極楽寺:https://www.yoritomo-japan.com/page136gokurakuji.htm
極楽寺の八重一重咲分桜は、時宗のお手植えとされています。
★桑ヶ谷療養所:https://www.yoritomo-japan.com/page136kuwagayatu-ryoyosho.htm
時宗の命により、極楽寺の忍性が開いた療養所といわれています。
時宗公毎歳忌
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/tokimune.htm
鎌倉手帳