源頼朝墓 の東側の山裾には、 宝治合戦 で敗れた 三浦泰村 一族の遺骸を納めたという「やぐら」があります。 三浦一族墓 (法華堂跡) 三浦氏 は桓武平氏の流れをくむ板東八平氏の一つで、三浦半島一帯に勢力をのばしていました。 三浦義明 は、 源頼朝 が挙兵すると 石橋山 に兵を派遣し、その子 義澄 は安房に渡った 頼朝 を助け、 頼朝 の鎌倉入りに大きな功績を残しました。 義澄 は、 鶴岡八幡宮 で、 頼朝 の征夷大将軍の辞令を受け取る役目を果たしています。 義澄 の子 義村 は、 畠山重保の殺害 、 和田合戦 、 将軍源実朝の暗殺事件 などに深く関与したと考えられ、 三浦氏 の安泰のためには手段を選ばない武将だったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~宝治合戦~ 三浦氏 の勢力が増すにつれ、御家人の中では三浦氏への反感が強くなり、中でも 安達氏 の 三浦氏 に対する憎悪はかなりのものだったようです。 そうした中、1246年(寛元4年)3月23日、 北条時頼 が五代執権の座に就きます。 時頼 の母は 安達景盛 の娘松下禅尼。 時頼 に質素倹約を教えたとして知られていますが、 時頼 は母方の実家 安達氏 を頼りにしていたものと思われます。 時頼 が執権になると、出家して高野山に籠もっていた 安達景盛 が鎌倉に戻り、 三浦氏 との戦いのための準備を始めます。 その時の 三浦氏 の当主は 泰村 でした。 鶴岡八幡宮 には「 三浦泰村 が討伐される」との立札が建てられます。 誰の仕業かわかりませんが、これによって 泰村 も兵を集めます。 合戦になるまで、 時頼 と 泰村 は手紙のやりとりなどをしていたようですが・・・ 1247年(宝治元年)6月5日、 安達景盛 が子の義景や孫の 泰盛 に命じて三浦邸を襲撃しました。 これが 宝治合戦 です。 合戦の先端が開かれたのは 筋違橋 だったといわれています。 筋違橋碑 当時、執権 北条時頼 は 小町亭 (現 宝戒寺 )にいたと考えられ、 三浦泰村 邸は横浜国立大学付属小中学校辺りにあったといいます。 お互いの邸は、かなりの近距離であることがわかります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 合戦の結果、 三浦泰村 は敗れ、 頼