源頼朝が誕生したときに乳付(授乳)した乳母は、尼となって摩々(まま)と呼ばれていたそうです。
相摸国の早河庄に住んでいたようで、この日、頼朝は摩々の屋敷・田畑を安堵するよう地頭に命じ、同年11月29日には早河庄の年貢を免除しています。
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ところで・・・
『吾妻鏡』には、摩々という乳母がもう一人登場します。
文治3年(1187年)6月13日条によると、頼朝のもとに父義朝の乳母が訪ね、平治の乱後、京都から相模国の早河庄へ下り、庄内の田七町を耕してきた事を語っています。
この時、頼朝は、その土地を領有して支配することを許しています。
この義朝の乳母は、建久3年(1192年)2月5日条にも登場し、摩々局と呼ばれています。
この時の年齢が92歳。
頼朝に「望みがあれば何でも叶えよう」と尋ねると、摩々局は、早河庄内の課役免除を総領に命じてくれるよう願います。
頼朝は三町の土地を加えた上で、平盛時を呼んで土肥遠平に課役免除を命ずるよう伝えています。
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さて・・・
頼朝の乳母と義朝の乳母が同じ名で、同じ場所に住んでいるということは、同一人物なのでしょうか?
別人だとすると親子か親族なのでしょうか・・・
もし、同一人物だとすると・・・
頼朝が生まれたのは1147年。
摩々は1192年で92歳。
ということは、47歳のときに乳付したということになりますが、年齢からすると少々無理がありそうです。
乳付には授乳という意味だけでなく「授乳できるようにすること」という意味もあるのだと言いますが、『吾妻鏡』には、頼朝に乳付した乳母は青女と記されています。
青女は若い女性のことを意味しているようですので、47歳の女性に使う言葉ではなさそうです。
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頼朝の乳母というと、比企尼、寒川尼、山内尼が知られています。
頼朝に授乳したという摩々については、山内尼と同一人物という説もあるようです。
山内尼は、摩々が登場する前年の11月26日に『吾妻鏡』に登場し、石橋山で頼朝に敵対して捕らえられた息子・山内経俊の助命を願っています。
経俊は、頼朝に敵対したことで山内荘を没収され、身柄は土肥実平に預けられていました。
土肥実平は、土肥郷を本拠として早河庄も統治していたようですので、山内尼が早河庄に住んでいたことがあってもおかしくないのかもしれません。
ただ、山内尼と摩々が同一人物であるなら、何故『吾妻鏡』で呼び方が違うのかという疑問が生じますが、乳母のことを「まま」と呼ぶこともあったようです。
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頼朝の乳母の摩々と義朝の乳母の摩々は別人で、頼朝の乳母の摩々と山内尼が同一人物だとすると・・・
義朝の乳母の摩々と山内尼の関係はどうなのでしょう。
親子ということも考えられますが・・・
義朝の乳母の摩々は、1159年(平治元年)の平治の乱後、京都から相模国の早河庄へ下ってきたと語っています。
山内尼は、鎌倉郡山内荘を領した山内俊通の妻です。
1180年(治承4年)に息子の経俊が頼朝の挙兵に敵対するまでは、山内荘で暮らしていたものと思われます。
その後、母のいる早河庄で生活していたのでしょうか・・・。
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