1159年(平治元年)12月27日、平清盛に敗れて都を落ちた源義朝は、東国へと向かう途中で、尾張国野間に立ち寄ります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『平治物語』によると、
12月29日、尾張国野間に着いた義朝は、長田忠致のもてなしを受けます。
義朝は、急いでいるので馬を用意するよう申しつけますが、忠致に留められて正月三日まで逗留することになります。
その間、息子もの景致を呼び寄せた忠致は、義朝の暗殺を企てます。
そして、1月3日、義朝に湯浴みをすすめ、橘七五郎、弥七兵衛、浜田三郎の三名に義朝殺害を命じます。
三名は、義朝の従者・金王丸が垢すりをしていたため、なかなか襲うことができませんでしたが、金王丸が着替えを取り出た隙に、橘七五郎が義朝を組み伏せ、弥七兵衛と浜田三郎が左右の脇の下を二度ずつ刺して絶命させました。
湯殿に戻った金王丸は、義朝を殺した三名を湯殿の入り口で斬り伏せ、景致を討つため奮戦した後、京都の常盤御前のもとに馬を走らせます。
1月5日早朝、常盤御前のもとにたどり着いた金王丸は、義朝が長田忠致に討たれたことを知らせています。
常盤御前は義朝の妾。
(愛知県知多郡美浜町)
そのころ、義朝の乳兄弟と呼ばれた鎌田政家は、忠致と酒を呑んでいましたが、義朝が殺されたことを知って立ち上がったところを、酌をしていた男に二度刺され、背後から景致に首を落とされました。
鎌田政家の妻は忠致の娘。
政家の死を知ると、すぐに駆けつけ、政家の刀で自殺したのだそうです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『平治物語』によると、
1月7日、長田忠致・景致父子は、恩賞を貰おうと、源義朝と鎌田政家の首を持って上洛。
1月23日、忠致は壱岐守、景致は兵衛尉に任じらますが・・・
忠致・景致父子が不満を申し立たことから、平清盛の怒りを買い、誅殺されそうになって、慌てて尾張に帰ったのだとか・・・
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『伝説』によると、
それから20年後の1180年(治承4年)、源義朝の嫡男・源頼朝が挙兵すると、長田忠致・景致父子は、頼朝に従ったのだと言います。
頼朝は長田父子に「勲功があったなら美濃尾張をやる」と約束したのだとか。
さらに10年後の1190年(建久元年)10月25日、頼朝は上洛途上で義朝が殺された尾張国野間に立ち寄ります。
その折に頼朝は「約束どおり身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言って長田父子を捕らえ、磔にしたのだと伝えられています。
ただ・・・
『吾妻鏡』の治承4年8月9日条には、長田入道が「北条時政と比企掃部允は頼朝を将軍にして、平家に反逆しようとしている」という密書を書いていることが記されています。
また、同年10月14日条には、駿河へ向かう武田信義らと、甲斐へ向かう駿河国の目代橘遠茂が鉢田辺りで遭遇した際、遠茂とともに奮戦していた長田入道の子二人が討たれたことが記されています(鉢田の戦い)。
この長田入道=長田忠致だとすると、忠致は平家に従っていたことになるようです。
鉢田の戦いで子二人とともに武田信義に討たれたという説もあります。
(愛知県知多郡美浜町)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆