源頼朝は、源氏再興の挙兵をするに当たって、まず伊豆国の目代・山木兼隆を攻めることにします。
当時の伊豆国の知行国守は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平時忠。
兼隆は、時忠から目代に任命されていました。
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『吾妻鏡』によると、山木兼隆(平兼隆)とは・・・
父の信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配された流人でした。
平家の一流の氏族ですので、しばらくいるうちに平清盛の威光を借りて、郡や郷にその力を見せつけていました。
源氏再興を図ろうとする源頼朝は、この兼隆を国敵として最初に討つこととします。
私的な恨みもあったようですが・・・。
その恨みとは???
頼朝は、挙兵する数年前に北条時政の娘・政子と結婚しています。
結婚したのは、長女・大姫の年齢からして1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。
『曽我物語』などでは・・・
北条時政が大番役で京に上っているときに恋仲となり、それを知った時政は、目代の山木兼隆に嫁がせようとしますが、政子は頼朝のもとへと走り、走湯権現(伊豆山神社)に匿ってもらったのだと伝えています。
頼朝の兼隆に対する恨みとは、政子が関係することなのでしょうか?
『吾妻鏡』によると・・・
1186年(文治2年)4月8日、静の舞を観覧した政子は、頼朝に次のように語っています。
「貴方が流人として伊豆にいるとき、私は貴方と結ばれました。
しかし、父時政は平家への聞こえを心配して、私を閉じ込めました。
それでも私は、闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のところに参りました」
『曽我物語』が伝えていることと合うような感じもしますが・・・
平時忠の前の知行国守は源仲綱。
1180年(治承4年)4月9日、以仁王が平家打倒の令旨を発出して挙兵しますが、これは仲綱と父の頼政の申し入れによるものです。
5月に仲綱と頼政は平等院で最期を遂げていますが、知行国守が時忠に代わって兼隆が目代に任命されたのは、その後のことと考えられます。
しかも、兼隆が伊豆国へ流されたのは1179年(治承3年)のことだといいます。
政子との事が原因で恨みがあったのではなさそうな感じですが・・・。
ただ、『吾妻鏡』は、兼隆が伊豆国で「しばらくの年月」を重ねていたような書き方をしています。
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