鎌倉時代後期の特徴を伝えたもので、当時の典型的な様式だといわれています。
均斉のとれた美しい五輪塔です。
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忍性は、1217年(建保5年)7月16日、大和国(奈良県)に生まれます。
1232年(貞永元年)、信心ぶかかった母の臨終を機に、16歳で大和国額安寺に入って出家し、翌年、東大寺の戒壇院で受戒します。
1240年(仁治元年)、奈良西大寺の叡尊を師と仰いで「律」を学び、社会事業に力をそそぐ叡尊の影響を強く受けるようになりました。
1252年(建長4年)、西大寺流の「律」を広めるために坂東に向けて旅立ち、常陸国で活動していましたが、1262年(弘長2年)、北条業時の招きによって鎌倉に入り、多宝寺に住持します。
そして、1267年(文永4年)、極楽寺の開山に迎えられました。51歳のときでした。
本尊には、西大寺と同じ清涼寺式釈迦如来が安置されます。
(参考:新清涼寺釈迦堂~鎌倉の廃寺~)
以後、37年間にわたって極楽寺に住持し、律の布教と慈善救済事業に力をそそぎます。
飢饉のときには粥を施し、さまざまな救済施設を建てました。
桑ヶ谷には、北条時宗の命により桑ヶ谷療養所が建てられ、多くの人々がを救われました。
忍性の救済事業は、人間に限られたものではありませんでした。牛馬のための馬病舎も建てています。
また、土木事業にも力をそそぎ、極楽寺門前から坂ノ下に通ずる極楽寺切通は忍性によって切り開かれたといわれています。
1303年(嘉元元年)7月12日、87歳で示寂。
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極楽寺参道の桜
忍性塔(墓)は、毎年4月8日の「花祭り」の日に特別公開されています。
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昭和51年の忍性塔の修理の際、忍性と慈済の2つの骨蔵器(舎利器)が発見されています。
いずれも「嘉元元年」(1303年)の銘が刻まれたもので国の重要文化財に指定されています。
また、忍性塔の傍らには、「延慶三年」(1310年)の銘がある五輪塔(国重文)や、極楽寺開基北条重時の宝篋印塔が置かれています。
忍性塔から少し離れた谷間には、極楽寺三代の順忍の五輪塔もあります。
この五輪塔は、昭和36年まで北条重時のものとして国の史跡として指定を受けていましたが、同年の集中豪雨で倒れた際、記銘をもつ舎利器が発見され、重時墓ではないことが明らかとなりました。
ただ、寺伝では、はじめから、忍性塔の傍らの宝篋印塔が重時の墓であると伝えていたようです。
※このため、この五輪塔は、国の史跡からは除かれています。
極楽寺ノ井
忍性が粥を施すために掘った井戸といわれています。
この他境内には、千服茶臼や製薬鉢も残されています。