『吾妻鏡』によると・・・
1191年(建久2年)3月3日、鶴岡八幡宮では法会があり、箱根の稚児10人が舞いました。
又、臨時祭では、馬長十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番が奉納され、源頼朝も参詣し、夕方には無事終了しました。
頼朝が御所に戻った後も、供奉した御家人たちは侍所に残っていましたが、その中に広田次郎邦房という御家人がいました。
邦房は御家人たちの前でこう予言します。
「明日、鎌倉に大火災が起こり、若宮(鶴岡八幡宮)も御所もその難を逃れることはできないだろう」と。
しかし、誰も本気にはしませんでした。
ところが・・・
翌3月4日は、南風が強く吹き荒れ、午前2時頃、小町大路の辺りで失火がありました。
強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、新田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼きます。
さらに、火は鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場に建てられたばかりの五重塔に移り、御所、神殿、回廊、経所が悉く灰燼と化してしまいました。
供僧坊のいくつかも延焼を免れることはできなかったそうです。
前日の晩、広田次郎邦房が予言したとおりの大火となってしまいました。
頼朝は、午前4時頃、甘縄の安達邸に避難しています。
3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を参拝して、頼朝は涙を流したといいますが、立ち直りは早く、8日には再建の工事にとりかかります。
7月28日、完成した新造の御所では「御移徒の儀」が行われ、頼朝は、安達邸から新亭に移っています。
そして、11月21日には、本宮(上宮)と若宮の遷宮が行われました。
頼朝は若宮再建とともに本宮を創建し、改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。
遷宮の際に行われた儀式を再現したのが、毎年12月16日に行われる「御鎮座記念祭」(御神楽)です。