別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年3月8日木曜日

鎌倉七口:名越切通の機能

鎌倉と三浦を結ぶ鎌倉七口の一つ名越切通は、「難越」といわれるほど険しい路でした。

古くは、日本武尊が東夷征伐の際に使った古東海道筋であったともいわれています。

(参考:伝説の古道:名越切通




『新編鎌倉志』には、

「名越切通は三浦へ行道也、此峠、鎌倉と三浦との境也、

甚険峻にして道狭、左右より覆たる岸二所あり、里俗大空洞・小空洞と云ふ、

峠より東を久野谷村と云、三浦の内也、西は名越、鎌倉の内也」

と紹介されています。


切通

名越切通がいつ切り開かれ整備されたのかは不明ですが、鎌倉七口の中でも最も早くから整備されていたのではないかと考えられています。


『吾妻鏡』によれば・・・

1233年(天福元年)8月18日早朝、北条泰時は江島明神参詣のために出掛けます。

しかし、前浜(由比ヶ浜)に殺人死体があったため、御所に引き返し、直ちに犯人を捕まえるよう指示します。

御家人らが、武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路などの要路を固め捜索した結果、名越辺で、血のついた直垂を洗っている男が発見されます。

岩手左衛門尉が生虜りにして御所で尋問すると、罪を認めたということです。

男は博奕人だったそうです。

※これが「名越坂」が初めて登場する場面ですが、こ時既に切通は開通していたと考えられています。


その他・・・

1204年(建永元年)2月4日、源実朝が名越山辺で雪見を行ったこと。

1219年(承久元年)9月22日の鎌倉の大火では、名越山の麓まで類焼したこと。

1235年(嘉禎元年)6月28日、明王院の洪鐘供養(南方高山祭)が名越山上で行われたこと。

が記されているようですが、「名越坂」についての記述はないようです。


大切岸(おおきりぎし)

源頼朝の亡き後、実権を握った北条氏にとっての脅威は、三浦半島の三浦氏でした。

頼朝以来の重臣「三浦氏」の軍勢を鎌倉へ入れないことが重要なことであり、そのためには鎌倉・三浦を結ぶ峠を防禦施設とする必要がありました。

延々と築かれた「大切岸」もそのための施設だと考えられていました。

しかし、近年の発掘調査では、「大切岸」は、「石切場の跡」だということが判明したそうです。


石廟

名越切通は、鎌倉・三浦往還の要路として、また、その周辺は埋葬地としての機能も持っていたと考えられています。

それを物語るものが、「まんだらどう」という地名であり、そこに所在する「まんだら堂やぐら群」です。

また、「まんだら堂やぐら群」の北東部には、2基の石廟も残されています。

鎌倉は土地が狭く、墓を建てる場所がありませんでした。

北条泰時の時代には、鎌倉における墓地の造営が禁止されていたものと考えられ、代わって周縁の山裾などに「やぐら」が営まれるようになったと考えられています。


「まんだら堂やぐら群」は、普段は立ち入り禁止となっていますが、定期的に公開されています。詳しくは逗子市教育委員会にお尋ねください。

名越切通は、世界文化遺産の候補地です。


世界文化遺産候補21の史跡

鎌倉手帳
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