土佐国夜須荘に夜須七郎行宗という武将がいました。
土佐国というと平治の乱後、源頼朝の同母弟希義が流された所です。
行宗は、希義を助け源氏再興と計っていたといいます。
しかし、1182年(寿永元年)、希義が挙兵することを恐れた平氏は、討手を差し向けます。
希義は、行宗を頼ろうとしますが、夜須荘に辿り着く前に土佐国の豪族、蓮池権守家綱と平田太郎俊遠に討たれてしまいました。
行宗は、海上に逃れ、そのまま鎌倉の頼朝のもとに馳せ参じたといいます。
(参考:源頼朝の弟希義)
源頼朝墓の傍らには、高知市にある源希義墓の土と石が置かれています。
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その後、夜須行宗は、頼朝の命を受けて、希義を討った蓮池権守家綱と平田太郎俊遠を討ち取り、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いでは、岩国兼秀・兼季兄弟を生け捕りにしました。
さて・・・『吾妻鏡』1187年(文治3年)3月10日条によると・・・
夜須行宗は、壇ノ浦の戦いでの功を頼朝に申し上げていましたが、その行宗を讒訴した者がいます。
讒言の名手梶原景時です。
景時の申すには・・・
「壇ノ浦の戦いの折に、夜須と称する者はいなかった。
岩国兼秀・兼季兄弟は、自ら降伏してきた輩である。
行宗は、壇ノ浦の戦いから年数が経過したのをいいことに、
悪だくみをして恩賞を得ようとしている」
というものでした。
一方、行宗は・・・
「壇ノ浦の戦いのときは、春日部兵衛尉と一緒に同じ船に乗っていた」
と主張します。
そこで、春日部兵衛尉を呼び出し尋問すると、
「一緒でした」
と答えました。
この押し問答を聞いていた頼朝は、行宗に恩賞を与えることとし、一方の景時には讒訴の科(とが)によって鎌倉中の道路造りを命じています。
その後、行宗は、本領安堵の下文を賜っています(1190年(建久元年)7月11日)。
希義が討たれたとき、身命を惜しまず、蓮池権守を討ち、以後も度重なる勲功があったからだと『吾妻鏡』は伝えています。
梶原景時は、源頼朝の信頼を得る一方で、多くの同僚たちを讒言によって陥れたと伝えられる武将です。
頼朝亡き後、結城朝光を讒言したことで、御家人らの弾劾に遭い失脚します。
1200年(正治2年)1月20日、駿河国清見関で最期を遂げています。
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