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大姫の病気治癒祈願~源頼朝の日向参詣~

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1194年(建久5年)7月29日、 源頼朝 の長女・ 大姫 が危篤状態に陥ります。 (八方手を尽くしたといいますが、一向によくなりませんでした。) そこで、頼朝は、「この国に2つとない効験のある薬師如来」という 日向薬師 の参詣を思い立ったのだといいます。 頼朝は、8月8日の早暁、日向薬師に向けて出発しています。 そして、仏に祈った後、夜になって帰ったそうです。 大姫 は、1183年(寿永2年)に 木曽義仲 の嫡男・義高と結婚。 大姫が6歳、義高が11歳でした。 しかし翌年、頼朝は 木曽義仲 を討伐し、義高も殺してしまいます。 それから大姫は病気となり生涯よくなることはありませんでした。 そして、1197年(建久8年)7月14日に亡くなっています。 日向薬師 (宝城坊)は、716年(霊亀2年)に行基によって開かれた霊山寺の別当坊。 『吾妻鏡』によると、 北条政子 も二度参詣しているようです。 日陰道 は日向薬師の参道。 源頼朝 や 北条政子 が歩いた道なのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝追討の宣旨と源行家・源義経

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源行家 は、 源為義 の十男。 『吾妻鏡』によると・・・ 1180年(治承4年)4月9日、以仁王が 源頼政 の勧めで平家追討の 令旨 を発出。 ちょうど京都に来ていた 源行家 を使って、 伊豆 の 源頼朝 をはじめとする源氏に知らせるよう手配します。 この時、行家は八条院の蔵人に任命され、名を義盛から行家に改めたようです。 令旨は、4月27日に 源頼朝 の所に届けられました。 届けた行家は、甲斐や信濃の源氏にも知らせるため、すぐに出発したようです。 8月17日、 頼朝 が挙兵。 10月には鎌倉を本拠とし、 富士川の戦い で平氏軍を敗走させています。 11月7日、 佐竹征伐 の後、常陸国府に志田義広と行家が頼朝に面会していますが、合流する事はありませんでした。 ※志田義広は 源為義 の三男。 1181年(治承5年)3月10日、行家は、長男の光家や義円(頼朝の異母弟)らを引き連れて墨俣川に陣を構えました。 平重衡 を大将とする平家軍は、墨俣川の西岸にいたようです。 行家は夜襲を企てていたようですが・・・ 事前に察知され、行家が出陣する前に重衡に攻められてしまいます。 結果は大敗。 この戦いで義円が討死。 (※義円の母は 常盤御前 、 源義経 の同母兄) 5月19日、三河にいた行家は、平家を追討のため、密かに上洛を決め、先勝を祈願するために、伊勢神宮に願文と献上品を送っています。 5月29日、伊勢神宮から返答がありましたが・・・ 祈祷は断れています。 うろたえた行家は、今度は 比叡山 衆徒に書状を出し、源氏に合力するよう頼んだのだとか。 11月5日、 頼朝 は、平惟盛の軍を迎え撃つため、足利義兼、 源義経 、 土肥実平 、土屋宗遠、 和田義盛 などを遠江国へ出発させようとしますが・・・ 佐々木秀義が、 「平惟盛は近江にいるようですが、その様子は不明です。 行家に尾張国に陣を張らせれば、軽率な出発をする必要はないのでは・・・」 と言うので、出発を延期しています。 1183年(寿永2年)5月4日、 木曽義仲 が平家追討のため、京都へ軍を進め、7月28日には入京。 『吾妻鏡』の寿永2年は、欠落が多いので詳細は不明ですが、行家と義広も一緒に入京したのだと

源頼朝の血筋の断絶~竹御所の死:鎌倉妙本寺~

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『吾妻鏡』によると、1234年(文暦元年)7月27日、四代将軍 藤原頼経 の室竹御所(源鞠子)が死産の末亡くなりました。 32歳でした。 竹御所の墓 (妙本寺) ここには竹御所の館がありました。 竹御所は、館跡に建てられた 新釈迦堂 に葬られたのだといいます。 新釈迦堂は江戸時代に 祖師堂 の左側に移築されますが、関東大震災で倒壊してしまい、現在は霊宝殿が建てられています。 ~比企氏の乱と実朝の暗殺~ 竹御所は、二代将軍 源頼家 の娘で、母は 比企能員 の娘若狭局といわれ、 比企氏の乱 の前年1202年(建仁2年)に誕生しています。 1203年(建仁3年)9月2日、 比企氏の乱 が起こると、母若狭局と兄 一幡 が殺され、父 頼家 も翌年暗殺されました。 その後、 北条政子 の庇護を受け、三代将軍 源実朝 (叔父)の猶子となりますが・・・ 1219年(承久元年)には、兄 公暁 が 実朝 を暗殺し、 三浦義村 によって討たれました。 一幡の袖塚 (妙本寺) 竹御所の兄一幡は、母若狭局とともに 比企氏の乱 で命を落としました。 ~唯一人の源頼朝の血筋~ 1225年(嘉禄元年)、 北条政子 が亡くなると、政子の葬儀や仏事を中心となって行い、政子の後継者であることを印象づけます。 御家人たちも、 源頼朝 の血筋として尊崇したといいます。 1230年(寛喜2年)12月9日、28歳のときに四代将軍 藤原頼経 (13歳)に嫁ぎ、 源頼朝 の血を引く御台所が誕生しますが・・・ 1234年(天福2年)7月27日、男子を死産し、竹御所も死去してしまいました。 これによって、 源氏の正統な血を引く者 がいなくなったことになります。 『北条九代記』によれば・・・ 1234年(文暦元年)7月26日、竹御所は、お産のため相模守 時房邸 に入ります。 そして27日の明け方(午前4時頃)にお産しますが、産まれたのは死んだ胎児だったそうです。 その後、竹御所は心身を悩まし、意識を失い、午前8時ころに息を引き取ったといいます。 妙本寺 の寺伝では、鞠子は「よし子」となっているようである(「よし」は「女」偏に「美」と書く)。 源頼朝の血筋 長女 大姫

信濃善光寺を再興した源頼朝

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『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)7月27日、 源頼朝 は 信濃善光寺 を再興するため、信濃国の荘園や公領の執行者に、勧進上人に協力して土木人夫を提供するよう命じています。 当時の 信濃善光寺 は、創建が古いことから堂宇は壊れ、1179年(治承3年)には火災に遭い、礎石以外だけが残されている状況だったようです。 そして、1191年(建久2年)10月22日、再建された 信濃善光寺 で供養が行われました。 もしかすると、頼朝も参列する予定だったのかもしれませんが、この年の3月、 鶴岡八幡宮 が焼失するという事件がありましたので、無理だったのかもしれません。 信濃善光寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 頼朝の善光寺参詣 肥後国人吉藩(ひとよしはん)の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には、1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているのだといいます。 『吾妻鏡』では、頼朝が参詣したとされる1197年(建久8年)の記事が欠落しているため確認はできませんが、参詣を予定していた記事は確認できます。 1195年(建久6年)8月2日、頼朝は、 鶴岡八幡宮 の 放生会 を終えたら、信濃国の善光寺を参詣することを発表しています。 しかし、8月23日には、寒くなってくるという理由から春に延期されています。 その後どうなったのか『吾妻鏡』からは確認できませんが、頼朝は 東大寺大仏殿 の落慶供養から帰ってすぐに 信濃善光寺 の参詣を計画していますので、大きなイベントとして考えていたのかもしれません。 駒返り橋 信濃善光寺 の参道入り口にある石橋は、 駒返り橋 と呼ばれています。 頼朝の駒(馬)の蹄が穴に挟まってしまい駒を返したのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 信濃善光寺にあった頼朝像 源頼朝像 甲斐善光寺 に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、もとは 信濃善光寺 にあったもの。 1558年(永禄元年)、 武田信玄 は信濃善光寺の本尊 善光寺如来 をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移します。 源頼朝像もこの時に甲斐国へ運ばれたのでしょう。 「文保3年」(1319年)の銘があるもので、源頼朝の最古の彫像と