別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2021年7月27日火曜日

源頼朝の血筋の断絶~竹御所の死:鎌倉妙本寺~


『吾妻鏡』によると、1234年(文暦元年)7月27日、四代将軍藤原頼経の室竹御所(源鞠子)が死産の末亡くなりました。

32歳でした。


竹御所の墓
(妙本寺)

ここには竹御所の館がありました。

竹御所は、館跡に建てられた新釈迦堂に葬られたのだといいます。




新釈迦堂は江戸時代に祖師堂の左側に移築されますが、関東大震災で倒壊してしまい、現在は霊宝殿が建てられています。



~比企氏の乱と実朝の暗殺~

竹御所は、二代将軍源頼家の娘で、母は比企能員の娘若狭局といわれ、比企氏の乱の前年1202年(建仁2年)に誕生しています。

1203年(建仁3年)9月2日、比企氏の乱が起こると、母若狭局と兄一幡が殺され、父頼家も翌年暗殺されました。

その後、北条政子の庇護を受け、三代将軍源実朝(叔父)の猶子となりますが・・・

1219年(承久元年)には、兄公暁実朝を暗殺し、三浦義村によって討たれました。


一幡の袖塚
(妙本寺)

竹御所の兄一幡は、母若狭局とともに比企氏の乱で命を落としました。



~唯一人の源頼朝の血筋~

1225年(嘉禄元年)、北条政子が亡くなると、政子の葬儀や仏事を中心となって行い、政子の後継者であることを印象づけます。

御家人たちも、源頼朝の血筋として尊崇したといいます。

1230年(寛喜2年)12月9日、28歳のときに四代将軍藤原頼経(13歳)に嫁ぎ、源頼朝の血を引く御台所が誕生しますが・・・

1234年(天福2年)7月27日、男子を死産し、竹御所も死去してしまいました。

これによって、源氏の正統な血を引く者がいなくなったことになります。


『北条九代記』によれば・・・

1234年(文暦元年)7月26日、竹御所は、お産のため相模守時房邸に入ります。

そして27日の明け方(午前4時頃)にお産しますが、産まれたのは死んだ胎児だったそうです。

その後、竹御所は心身を悩まし、意識を失い、午前8時ころに息を引き取ったといいます。



妙本寺の寺伝では、鞠子は「よし子」となっているようである(「よし」は「女」偏に「美」と書く)。



源頼朝の血筋

長女大姫・・・
1197年(建久8年)7月14日死去
(参考:岩船地蔵堂

次女三幡(乙姫)・・・
1199年(正治元年)6月30日死去
(参考:畠山重忠邸跡

長男頼家・・・
1204年(元久元年)7月18日暗殺
(参考:修禅寺

次男実朝・・・
1219(承久元年)1月27日暗殺
(参考:源実朝の暗殺

一幡(頼家嫡男)・・・
1203年(建仁3年)9月2日討死
(参考:比企氏の乱

公暁(頼家次男)・・・
1219年(承久元年)1月27日討死
(参考:源実朝の暗殺

孫栄実(頼家三男)・・・
1215年(建保2年)12月13日自殺

孫禅暁(頼家四男)・・・
1220年(承久2年)4月14日誅殺


妙本寺

妙本寺



源頼朝の乳母・比企尼

比企氏の乱









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


よりともジャパン.com


検索

Translate