別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年7月28日水曜日

源頼朝追討の宣旨と源行家・源義経


源行家は、源為義の十男。


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)4月9日、以仁王が源頼政の勧めで平家追討の令旨を発出。

ちょうど京都に来ていた源行家を使って、伊豆源頼朝をはじめとする源氏に知らせるよう手配します。

この時、行家は八条院の蔵人に任命され、名を義盛から行家に改めたようです。


令旨は、4月27日に源頼朝の所に届けられました。

届けた行家は、甲斐や信濃の源氏にも知らせるため、すぐに出発したようです。


8月17日、頼朝が挙兵。

10月には鎌倉を本拠とし、富士川の戦いで平氏軍を敗走させています。


11月7日、佐竹征伐の後、常陸国府に志田義広と行家が頼朝に面会していますが、合流する事はありませんでした。

※志田義広は源為義の三男。


1181年(治承5年)3月10日、行家は、長男の光家や義円(頼朝の異母弟)らを引き連れて墨俣川に陣を構えました。

平重衡を大将とする平家軍は、墨俣川の西岸にいたようです。

行家は夜襲を企てていたようですが・・・

事前に察知され、行家が出陣する前に重衡に攻められてしまいます。

結果は大敗。

この戦いで義円が討死。

(※義円の母は常盤御前源義経の同母兄)


5月19日、三河にいた行家は、平家を追討のため、密かに上洛を決め、先勝を祈願するために、伊勢神宮に願文と献上品を送っています。

5月29日、伊勢神宮から返答がありましたが・・・

祈祷は断れています。

うろたえた行家は、今度は比叡山衆徒に書状を出し、源氏に合力するよう頼んだのだとか。


11月5日、頼朝は、平惟盛の軍を迎え撃つため、足利義兼、源義経土肥実平、土屋宗遠、和田義盛などを遠江国へ出発させようとしますが・・・

佐々木秀義が、

「平惟盛は近江にいるようですが、その様子は不明です。

行家に尾張国に陣を張らせれば、軽率な出発をする必要はないのでは・・・」

と言うので、出発を延期しています。


1183年(寿永2年)5月4日、木曽義仲が平家追討のため、京都へ軍を進め、7月28日には入京。

『吾妻鏡』の寿永2年は、欠落が多いので詳細は不明ですが、行家と義広も一緒に入京したのだとか。

その後、義仲と不仲となり、京都を脱出しているようです。


1184年(寿永2年)1月20日、木曽義仲滅亡。

1185年(元暦2年)3月24日、平家滅亡。


1185年(元暦2年)8月4日、行家の謀反が発覚。

頼朝は、佐々木定綱に行家を滅ぼすようにとの命令書を出します。


9月2日、頼朝は、梶原景季を上洛させます。

景季には、義経の屋敷へ行って、行家を見つ出して、殺すよう命じています。

併せて、義経の動向を探るよう命じています。

(※義経が行家を味方にし、関東に背こうとしているとの噂があったようです。)


10月6日、景季が鎌倉に戻ってきます

その報告によると・・・

義経邸に行きますが病気のため面会できず、二日後にもう一度行くと、憔悴した様子で数ケ所に灸の跡があったそうです。

景季が義経に「行家を滅ぼすよう命令が出ている」ことを伝えると、

「たとえ強盗のような犯人であっても、直に取調べたいと思う。

まして行家は、他家の者ではなく、同じ源経基の子孫。

他の者と同じには扱えない。

家人のみを行かせても降伏させるのは難しい。

早く病を治して計略を練ろう」

と答えたのだと言います。

これを聞いた頼朝は、義経の病は仮病で、すでに行家と通じていると判断したようです。


10月11日と13日、義経は仙洞御所に行って、後白河法皇に頼朝追討の官符を要求しています。

その理由は、頼朝が何の罪もない行家を殺害しようとしていることや、平家討滅に努力した義経まで殺そうという噂を耳にしたためのようです。


一方頼朝は、土佐房昌俊に命じて義経の六条室町の屋敷を襲撃させます(10月17日)。

この時、義経の家人は少なかったのですが、義経は佐藤忠信らを引き連れ、自ら門を開いて戦います。

それを聞いた行家が戦いに加わったことで、土佐房昌俊は逃げていったそうです。

(※その後、土佐房昌俊は鞍馬山に潜んでいる所を発見され、10月26日、六条河原で斬首されています。)


10月18日、行家義経に頼朝追討の宣旨が下されます。

後白河法皇は、頼朝追討の宣旨を出すかどうか悩んだようですが・・・

京都に駐屯しているのは義経軍だけなので、もし宣旨を下さないで、乱暴をはたらかれたら、防ぐことができません。

その難から逃れるため宣旨を下し、頼朝には後で事情を説明することとしたのだとか。

行家義経に頼朝追討の宣旨が下されたことは、10月22日に鎌倉の頼朝に伝わります。


10月24日、頼朝は、亡き父義朝のために建てた勝長寿院の供養を行います。

供養を終えて御所へ帰った頼朝は、和田義盛梶原景時を呼びつけると、明日上洛することを伝え、兵を集めてその名を報告するとともに、別に明日の早朝に出発できる者の名を書きつらねて報告するように命じました。

その夜の報告によると、集まった御家人は千葉常胤以下2096人、直ぐに出発できるのは小山朝政小山朝光以下58人だったそうです。


翌夜明け、頼朝は義経討伐の軍を京都へ向けて出陣させ、

○尾張と美濃に着いたら、両国の者に命じて足近、洲俣以下の渡しを固めること

○入洛したら何より先に行家と義経を殺すこと

○もし両人が京にいない場合は頼朝の上洛を待つこと

を命じています。


10月29日、頼朝が京都へ向けて出陣。

先陣は土肥実平、殿は千葉常胤


11月1日、黄瀬川の宿に到達した頼朝は、京都の情報が入るまで暫く逗留することにします。


その頃義経は、九州へ行こうと考えていました。

そして、11月3日、義経と行家は、後白河法皇へ使いを出し、九州へ落ちることを伝え、京都を出ます。

従っていたのは、平時実、一条能成、源有綱、堀景光、佐藤忠信、伊勢義盛、片岡弘経、弁慶などの200騎ほど。

この時、義経と行家は、後白河法皇から、それぞれ九州の総地頭、四国の総地頭に任命されていたようです(いつ任命されたのかは不明)。



11月5日、頼朝が派遣した御家人が入洛します。

一方、義経らは摂津国川尻に至っていました。

そこで、多田行綱と豊島冠者の攻撃を受け、これを撃退しますが・・・

その間、多くの者が脱落し、残った兵は幾らもいなかったようです。


11月6日、義経と行家は、大物浦で船に乗ろうとしたところ、大風が吹き、波が船を転覆させてしまいました。

思いがけない出来事で九州への船出が失敗し、従っていた兵はバラバラとなり、義経のもとに残ったのは源有綱、堀景光、弁慶と妾の静御前の四人だけでした。

その夜は、天王寺のあたりに一泊、その後の行方は不明となります。

義経の船が転覆した頃、後白河法皇は、義経と行家を探し出して差し出すよう、諸国へ院宣を発布しています。



11月7日、黄瀬川の宿に逗留していた頼朝は、義経と行家が都落ちしたという連絡が届き、翌日、鎌倉へ向けて出発しています。

一方朝廷は、義経の伊予守と検非違使の職を解任しています。


11月12日、頼朝は、義経の舅・河越重頼の領地を没収しました(義経の正妻は重頼の娘・郷御前)。

その内の伊勢国香取五つの郷は大井実春に与えられ、他は重頼の母の預かりとなっています。

重頼の娘婿・下河辺政義の所領も没収されています。


その後、行家は・・・

和泉国や河内国辺りに逃げていたようです。

1186年(文治2年)5月12日、行家が和泉国近木郷の在庁官人・日向権守清実のもとにいることが判明。

北条時定と常陸房昌明が清実の屋敷を取り囲むと、行家は裏山の民家の二階に逃げ込み防戦しましたが、昌明に捕えられ梟首されました。

行家の長男光家も梟首されています。


義経は・・・

1185年(文治元年)11月17日、義経と行動をともにしていた妾の静御前が捕らえられ、五日ほど大和国の吉野山に潜んでいたことが判明しますが、その後は姿をくらまし、1187年(文治3年)の春頃、奥州平泉にたどり着いたようです。

そして、1189年(文治5年)閏4月30日、藤原泰衡に襲撃され、自刃しました。


高館義経堂
(平泉)






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