別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年7月27日火曜日

信濃善光寺を再興した源頼朝


『吾妻鏡』によると・・・

1187年(文治3年)7月27日、源頼朝信濃善光寺を再興するため、信濃国の荘園や公領の執行者に、勧進上人に協力して土木人夫を提供するよう命じています。

当時の信濃善光寺は、創建が古いことから堂宇は壊れ、1179年(治承3年)には火災に遭い、礎石以外だけが残されている状況だったようです。

そして、1191年(建久2年)10月22日、再建された信濃善光寺で供養が行われました。

もしかすると、頼朝も参列する予定だったのかもしれませんが、この年の3月、鶴岡八幡宮が焼失するという事件がありましたので、無理だったのかもしれません。


信濃善光寺


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頼朝の善光寺参詣

肥後国人吉藩(ひとよしはん)の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には、1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているのだといいます。

『吾妻鏡』では、頼朝が参詣したとされる1197年(建久8年)の記事が欠落しているため確認はできませんが、参詣を予定していた記事は確認できます。

1195年(建久6年)8月2日、頼朝は、鶴岡八幡宮放生会を終えたら、信濃国の善光寺を参詣することを発表しています。

しかし、8月23日には、寒くなってくるという理由から春に延期されています。

その後どうなったのか『吾妻鏡』からは確認できませんが、頼朝は東大寺大仏殿の落慶供養から帰ってすぐに信濃善光寺の参詣を計画していますので、大きなイベントとして考えていたのかもしれません。


駒返り橋

信濃善光寺の参道入り口にある石橋は、駒返り橋と呼ばれています。

頼朝の駒(馬)の蹄が穴に挟まってしまい駒を返したのだとか・・・。


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信濃善光寺にあった頼朝像

源頼朝像

甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、もとは信濃善光寺にあったもの。

1558年(永禄元年)、武田信玄は信濃善光寺の本尊善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移します。

源頼朝像もこの時に甲斐国へ運ばれたのでしょう。

「文保3年」(1319年)の銘があるもので、源頼朝の最古の彫像といわれています。

銘文には、頼朝の命日である「正治元年正月13日」という日付も確認されていて、頼朝の彫像であることは間違いないとされています。

また、「尼二位」の文字も読み取れることから北条政子が造らせた像ではないかとも考えられているようです。

政子は1218年(建保6年)に従二位に叙せられています。

「文保3年」の銘については、頼朝によって再興された信濃善光寺は、その後二度の火災に見舞われており、その時に受けた損傷を修理したのが文保3年と考えられているようです。

北条政子が造らせたという説と併せて考えれば、頼朝が亡くなった1199年(正治元年(建久10年))から政子が亡くなった1225年(嘉禄元年)の間に造像されたものなのかもしれません。


信濃善光寺


善光寺前立本尊御開帳

「善光寺前立本尊御開帳」は、数え年で七年に一度、秘仏本尊の身代わり 「前立本尊」(鎌倉時代・重要文化財)を本堂に迎え、約2ヵ月にわたって行なわれる儀式。

2021年(令和3年)4月4日(日)から5月30日(日)の予定でしたが・・・

新型コロナウイルス感染が終息しない状況を受け、1年延期となりました。

2022年(令和4年)4月3日(日)~6月29日(水)。


善光寺御開帳



信濃善光寺

甲斐善光寺







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善光寺と鶴岡八幡宮

源頼朝像と善光寺

歴史めぐり源頼朝


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


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