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東大寺開山の良弁と、父と伝わる染屋時忠。

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染屋太郎大夫時忠邸址碑 鎌倉の長谷にある 染屋太郎大夫時忠邸址碑 に刻まれている文によると・・・ 時忠は藤原鎌足の玄孫で東大寺の 良弁僧正 の父。 697年(文武天皇元年)頃から728年(神亀5年)頃まで、東国八箇国の総追捕使として鎌倉に住み、東夷を鎮圧して、由比長者と称されていたそうです。 ※「染屋」という氏については「漆屋」だという説があるようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 良弁僧正像 (東大寺開山堂) 『大山縁起絵巻』は良弁について・・・ 相模国の国司だった太郎太夫時忠夫妻には子がなく、如意輪観音像に祈願して 良弁 が生まれます。 ところが、生まれて間もなく金色の鷲にさらわれてしまいます。 その後、高僧・覚明が楠木にあった金色の鷲の巣の中に赤子を発見。 しかし、巣の中から助ける事ができず、不動明王に祈願すると、一匹の猿が現れて覚明に手渡したのだという。 助けられた子は僧侶として育てられ、 東大寺 を建立します。 そして、探しに来た父母と南大門で再開。 父母とともに相模国へと帰り、 大山寺 を建立したのだと伝えています。 こうした話から、『宝物集』では金鷲童子、『東大寺大仏縁起』では金鷲仙人と呼んでいるようです。 『大山縁起』(真名本)は良弁について・・・ 良弁は相模国由比郷の人で、僧になる前の姓は漆部氏。 優れた将軍の漆屋太郎大夫時忠の子であると伝えています。 大山寺 (伊勢原市) 『東大寺縁起絵巻』には、良弁僧正は相模国大隅郡漆窪という所の漆部の氏人であることが記され、『東大寺要録』にも「僧正は、相模の国人・漆部氏であることが記されているようです。 ※大隅郡漆窪は現在の秦野市なのだそうです。 東大寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 漆部(ぬりべ)氏とは・・・ 相模国の豪族で、大和政権から「直」(あたい)の姓が与えられ、漆部伊波(ぬりべいなみ)のときに「相模宿禰」(さがみのすくね)の姓が与えられたのだそうです。 伊波は、 東大寺 の 大仏 建立に際して二万端もの商布を献上したという記録(『東大寺要録』)があることから、相模国でかなりの経済力を有し、中央とも密接な関係があったものと考えられているようです。 764年(天平宝

鎌倉大町の八雲神社と新羅三郎義光。

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八雲神社 八雲神社 は、 新羅三郎義光 が京都の 祇園八坂社 (現在の八坂神社)を勧請して創建した鎌倉最古の厄除け神社。 義光は、河内源氏二代・ 源頼義 の子。 兄には八幡太郎と呼ばれた 義家 がいます。 新羅とは、近江の 新羅明神 (新羅善神堂)で元服したことから呼ばれる名。 八坂神社 (京都) 新羅善神堂 新羅善神堂 は、 園城寺 (三井寺)の北院の鎮守神・新羅明神像(国宝)が祀られています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 平安時代後期、陸奥国では後三年の役が起こります。 新羅三郎義光 は、乱の鎮圧にあたっていた兄・源 義家 の助勢のため陸奥国へと下ります。 その途中で鎌倉に立ち寄った義光は、疫病の流行に苦しむ村人をみて、京都の 祇園社 を勧請したのだといいます。 すると、たちまちに悪疫が退散したのだと伝えられています。 そういったことから、 八雲神社 は「鎌倉の厄除けさん」として親しまれ、江戸時代までは「鎌倉祗園社」と呼ばれていたそうです。 新羅三郎義光の墓 (大寶寺) 義光は、現在の 大寶寺 のある地に屋敷を構え、後に義光を祖とする佐竹氏の屋敷となったのだと伝えられています。 八雲神社 の 神幸祭 は、まず義光の墓に祝詞を奏してから町内を巡行する習わしになっています。 2020年の 大町まつり は中止。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

木魚の原形となった開梛~京都:萬福寺~

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この魚板は時を報ずるためのもの。 開梛 (かいぱん)と呼ばれるそうです 木魚の原形となったものです。 萬福寺 https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/manpukuji/manpukuji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

元国から来日して建長寺10世となった一山一寧

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一山一寧(いっさんいちねい)は中国元の禅僧。 寧一山とも呼ばれました。 建長寺総門の額 建長寺 の 総門 に掲げられている「巨福山」は一山の筆によるもの。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『北条九代記』によると・・・ 一山一寧は、宋国台州の出身。 律宗・天台宗を学んだ後、禅宗に転じました。 1299年(正安元年)10月8日、元国王の命により来日。 それを聞いた九代執権 北条貞時 は、一山を元国からのスパイとして捕え、一時、伊豆国に流すのですが、禅道・学問に優れた僧であるという評判だったため、鎌倉に招いて 建長寺 に住まわせました。 貞時は毎日面会して重要な事を訪ねたのだといいます。 禅宗を重んじていた後宇多天皇も京都に一山を招いて 南禅寺 に住まわせ、禅道の根本を問おたのだといいます。 その後、一山は元国へ帰ることもなく、1317年(文保元年)10月25日、 南禅寺 で入滅(71歳)。 「一世に横行す、仏祖の呑気。箭己に弦を離れ、虚空地に落つ」 (一生涯を自在に生きた。仏はそれを問題にしないでくれた。矢はすでに弦を離れ、大空は地に落ちた。そのように私の命もこの世を去るときが来た。) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 修禅寺 伊豆に流された一山が幽閉されたのが 修禅寺 でした。 1293年(永仁元年)、一山は鎌倉に招かれ 建長寺 10世となります。 鎌倉では、 円覚寺 や 浄智寺 にも住したようです。 南禅寺 1313年(正和2年)、後宇多天皇に京都に招かれた一山は 南禅寺 3世となります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

東慶寺梵鐘と覚海円成~伊豆の国市:本立寺の梵鐘~

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東慶寺にあった梵鐘 (伊豆の国市:本立寺) 伊豆の国市にある 本立寺 の梵鐘は、1332年(元徳4年)に 北条高時 の母覚海円成が鋳造させたもので、もとは鎌倉の 東慶寺 の梵鐘でした。 1333年(元弘3年)、鎌倉幕府は 北条高時 以下870余名が 東勝寺 で自刃したことにより滅亡しました。 高時 の母覚海円成は、残された子女とともに伊豆国韮山に移り住み、 円成寺 を建立して北条氏の菩提を弔ったといいます。 北条氏邸跡(円成寺跡) 本立寺 にある梵鐘がいつ頃から伊豆にあるのかは不明ですが、おそらく覚海円成が伊豆に移り住んだときに 東慶寺 から運んできたのだろうと考えられます。 そして 円成寺 の梵鐘として使用されていたのではないでしょうか。 円成寺 は江戸中期に焼失したといいますので、その後、徳川幕府の代官だった 江川氏 の菩提所 本立寺 へ移されたのだと思われます。 梵鐘の銘文 梵鐘銘には、最初に「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘」と刻まれ、文末には「壬申元徳二二年結制後十一日」、「大檀那菩薩戒尼 円成」と刻まれています。 壬申元徳は西暦1332年。 「二二年」というのが問題ですが、後醍醐天皇は1331年に「元弘」と改元していますので、「元弘2年」という意味と、もうひとつ二を書き加えることで「四」と読ませ「元徳4年」という意味としたのではないでしょうか・・・。 ※後醍醐天皇の改元に鎌倉幕府は従わず「元徳」を使い続けていた。 東慶寺の梵鐘 現在の 東慶寺の梵鐘 は、補陀洛寺から移されたもので、1350年(観応元年)の鋳造。 東慶寺鐘楼 ・・・・・・・・・・ 本立寺 (伊豆の国市) 東慶寺 (鎌倉) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北山の金閣(鹿苑寺)と東山の銀閣(慈照寺)

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京都を代表する建築物・・・金閣と銀閣。 「金閣」 とは 鹿苑寺 の舎利殿のこと。 「銀閣」 とは 慈照寺 の観音殿のこと。 舎利殿 足利義満が営んだ山荘「北山殿」をはじまりとする 鹿苑寺 。 義満の死後、 夢窓国師 を開山とする寺となった。 「金閣」 は、北山文化の象徴。 観音殿 足利義政が営んだ山荘「東山殿」をはじまりとする 慈照寺 。 義政の死後、 夢窓国師 を開山とする寺となった。 「銀閣」 は東山文化の象徴。 鹿苑寺 と 慈照寺 は、 京都五山 の一つ 相国寺 の境外塔頭。 ともに 夢窓国師 を開山としていますが、2つの寺が創建された時には亡くなっているため、勧請開山(名目上の開山)として迎えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!