投稿

源義経を祀る御霊神社~茅ヶ崎~

イメージ
御霊山西運寺の毘沙門堂が幾多の変遷を経て御霊神社となったのだといいます。 伝説によると・・・ 西運寺の毘沙門堂は、 大庭景義 が先祖の 鎌倉権五郎景政 を祀ったのが始まりで、 源頼朝 の前に亡霊となって現れた 源義経 が合祀されたのだいいます。 ~源義経の亡霊伝説~ 1198年(建久9年)12月27日、相模川に架けられた橋供養に参列した 源頼朝 。 その帰路のことでした。 鶴嶺八幡宮 にさしかかったとき、 源義経 と源行家らの亡霊が現われます。 馬が暴れ出して棒立ちとなり頼朝は落馬。 その時に負った怪我が原因で翌年の1月13日に亡くなったのだと伝えられています。 西運寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 旧相模川橋脚 旧相模川橋脚 は、1923年(大正12年)の関東大震災で地中に埋まっていたものが、浮かび上がってきました。 『吾妻鏡』などの記録から、相模川に架けられた橋の遺構とされ、国の史跡に指定されています。 弁慶塚 鶴嶺八幡宮 の参道には、 義経の霊を慰めるために建てられた弁慶塚があります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉を目指す源頼朝と甲斐源氏~諏訪明神のお告げ・・・~

イメージ
甲斐国の源氏・ 武田信義 と一条忠頼らは、 源頼朝 の 石橋山の戦い の事を聞くと、頼朝に参陣するため駿河国へ向かおうとしたそうですが、信濃国で平家に味方する者があると聞いて、まずは信濃国へと向かったのだそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)9月9日、 諏訪大社 上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜、一条忠頼の陣に一人の女が現れます。 怪しみながらも忠頼はその女を火の近くに招きよせました。 女は諏訪大社の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻で、夫の使者として参ったとのこと。 篤光は、源家の祈祷のため、社頭に籠って、もう三日も外に出てきていませんが、夢の中に梶葉紋の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士の一騎が、源氏の味方だと言って、西へと走っていったのだといいます。 ※梶葉紋は 諏訪大社 の神紋。 これは諏訪大明神の夢のお告げ。 夢から覚めて、すぐにお伝えしようと思ったようですが、社頭にいるべきと考え、妻を使いによこしたのだそうです。 諏訪大社を信仰していた一条忠頼は、公家の太刀一腰と腹巻一領を女に与え、すぐに出陣し、平家に味方する菅冠者の伊那郡大田切郷の城へと軍を進めます。 しかし、菅冠者は戦わずして館に火を放って自殺してしまったのだとか。 諏訪大明神のお告げによって菅冠者を滅ぼすことができた一条忠頼は、田畑を 諏訪大社 の上宮に平出と宮所の二郷を、下宮に龍市の一郷を寄付することとします。 右筆に寄進状を書かせると、 岡仁谷郷の文字を書き足しまったので、書き直させますが、また岡仁谷郷を書いてしまいます。 その後、何度書き直させても書き足してしまうのだそうです。 そこで、古老に聞いてみると・・・ 岡仁谷と呼ばれる所はあるのだとか。 武田信義 と一条忠頼は、上下の宮に差別があってはならないという神のお告げだとして、ますます信心したのだそうです。 諏訪大社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ その後・・・ 武田信義 と一条忠頼は、信濃国で平家に味方する者を数多く討ち取り、9月14日、甲斐国へ帰って逸見山に宿泊。 そして、9月15日、 北条時政 が到着し、 源頼朝 の伝言が伝えられました。 北条時政 は、9月8日、頼朝の命を受けて甲斐国へ出発していました。 頼朝の命は、甲斐国の源

市原合戦~木曽義仲の最初の戦い~

イメージ
木曽義仲 は 源義賢 の次男。 1155年(久寿2年)8月16日、父の義賢が 源義朝 の長男・ 義平 ( 頼朝 の異母兄)に大蔵館を攻められて滅ぼされると、まだ3歳だった義仲は、乳母夫の中原兼遠に連れられ、信州の木曽で育てられます。 源義賢の墓 (埼玉県嵐山町) 木曽で成人した義仲には、平家を征伐して家を興したいという考えがあったようです。 そんな中、 源頼朝 が 挙兵 。 義仲はすぐに参陣しようと思ったようですが・・・ 1180年(治承4年)9月7日、小笠原頼直が義仲討伐のため木曽侵攻を企てます。 それを察した村山義直と栗田寺別当・大法師範覚が出陣し、信濃国市原で合戦が始まりました。 合戦は日暮れまで続きますが、村山義直の矢が尽きてしまいます。 村山義直からの援軍要請を受けた義仲は、大軍を率いて助勢に駆けつけます。 その威勢に怖れをなした小笠原頼直は、城長茂を頼って越後国へ逃げて行ったのだといいます。 ※この合戦が史料でみることのできる義仲が関与した最初の戦いです。 木曽義仲の墓 (滋賀県:義仲寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

扇谷上杉家と糟屋荘と太田道灌

イメージ
上杉館跡 (糟屋館跡) 上杉氏は、1252年(建長4年)、六代将軍 宗尊親王 が鎌倉に下向する際、親王に従って下向してきた 上杉重房 が祖。 重房は宗尊親王が鎌倉を追放された後も鎌倉幕府に仕え、足利氏と姻戚関係を結び、その地位を確立していきます 鎌倉幕府が亡び、 足利尊氏 による室町幕府が開かれると、鎌倉には鎌倉府が置かれます。 鎌倉府の長は 鎌倉公方 と呼ばれ、上杉氏は 関東管領 となって鎌倉公方を補佐していました。 上杉氏は四家( 山内 ・宅間・ 犬懸 ・ 扇谷 )に分かれて関東管領を世襲していきますが、宅間と犬懸は早くに没落し、山内と扇谷の二家が残ります。 糟屋荘には、扇谷の上杉持朝が相模守護となった時に役所が置かれ、上杉館(糟屋館)が建てられました。 現在、産業能率大学のある台地がその場所と推定されているようです。 扇谷上杉家に仕えた太田道灌は、この糟屋館に誘きだされて殺害されたのだと伝えられています。 七人塚 太田道灌が上杉定正に襲われた時に討死した家臣7名の墓。 享徳の乱や長尾景春の乱で活躍し、扇谷上杉家の勢力を大きくした道灌でしたが、謀反を疑った主君の上杉定正は、1486年(文明18年)7月26日、道灌を糟屋館に招き、入浴をすすめて刺客に襲わせました。 死の間際に道灌は「当方滅亡」と言い残したのだといいます。 自分が死ねば扇谷に未来はないという予言だったのだそうです。 やがて、山内上杉家と扇谷上杉家が、関東の覇権をかけて内紛を起こし勢力を衰退させると、関東は 韮山城 を拠点に 小田原城 を奪取した 北条早雲 に攻めらることとなります。 そして、1546年(天文15年)の河越夜戦で扇谷上杉家は滅亡します。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

上粕屋神社~伊勢原市~

イメージ
天平年間(729-749)、良弁僧正が 大山寺 を開く際、 山王社 を勧請したことに始まるのだといいます。 大同から弘仁年間(806 - 824)に近江国から 日吉神 を勧請したのだとも伝わっているようです。 上粕屋の地は、戦国期に 扇谷上杉家 の 糟屋館 があった所で、当時、山王社と呼ばれていた上粕屋神社は糟屋館の鎮守社だったそうです。 祭神は、大山咋神・大穴牟遲命・若山咋命 合祀祭神は、伊弉諾命・速玉男命・事解男命・伊弉冊命・菊理姫命・泉道守命・天穂日命・大己貴命・少彦名命・事代主命・三穂津姫命・日本武尊 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

太田道灌開基の洞昌院~伊勢原市~

イメージ
洞昌院は戦国武将・太田道灌の開基と伝わる曹洞宗の寺院。 本尊は 釈迦如来。 洞昌禅寺の額 三徳殿 (太田道灌霊廟) 太田道灌の墓 太田道灌は、扇谷上杉家に仕えた戦国武将。 山内上杉家と扇谷上杉家との争いに巻き込まれ、1486年(文明18年)7月26日、その才能を恐れた主君上杉定正(扇谷上杉)の糟屋館におびき出され謀殺されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆