上杉館跡
(糟屋館跡)
上杉氏は、1252年(建長4年)、六代将軍宗尊親王が鎌倉に下向する際、親王に従って下向してきた上杉重房が祖。
重房は宗尊親王が鎌倉を追放された後も鎌倉幕府に仕え、足利氏と姻戚関係を結び、その地位を確立していきます
鎌倉幕府が亡び、足利尊氏による室町幕府が開かれると、鎌倉には鎌倉府が置かれます。
鎌倉府の長は鎌倉公方と呼ばれ、上杉氏は関東管領となって鎌倉公方を補佐していました。
上杉氏は四家(山内・宅間・犬懸・扇谷)に分かれて関東管領を世襲していきますが、宅間と犬懸は早くに没落し、山内と扇谷の二家が残ります。
糟屋荘には、扇谷の上杉持朝が相模守護となった時に役所が置かれ、上杉館(糟屋館)が建てられました。
現在、産業能率大学のある台地がその場所と推定されているようです。
扇谷上杉家に仕えた太田道灌は、この糟屋館に誘きだされて殺害されたのだと伝えられています。
七人塚
太田道灌が上杉定正に襲われた時に討死した家臣7名の墓。
享徳の乱や長尾景春の乱で活躍し、扇谷上杉家の勢力を大きくした道灌でしたが、謀反を疑った主君の上杉定正は、1486年(文明18年)7月26日、道灌を糟屋館に招き、入浴をすすめて刺客に襲わせました。
死の間際に道灌は「当方滅亡」と言い残したのだといいます。
自分が死ねば扇谷に未来はないという予言だったのだそうです。
やがて、山内上杉家と扇谷上杉家が、関東の覇権をかけて内紛を起こし勢力を衰退させると、関東は韮山城を拠点に小田原城を奪取した北条早雲に攻めらることとなります。
そして、1546年(天文15年)の河越夜戦で扇谷上杉家は滅亡します。
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