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挙兵して敗れた以仁王と源頼政

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以仁王は後白河天皇の第三皇子。 三条高倉に御所があったことから、三条宮あるいは高倉宮と呼ばれていました。 『吾妻鏡』によると、 1180年(治承4年)4月9日、以仁王は、源頼政の勧めで全国の源氏に平家追討の令旨を発布。 (※伊豆の源頼朝のところには4月27日に届いています。) これに対して朝廷は、 5月15日、以仁王を土佐国流罪と決定。 検非違使の源兼綱と藤原光長らが三条高倉御所へ向かいますが、事前に源頼政からの知らせを受けていた以仁王は 三井寺 に逃げ込んでいます。 5月19日には源頼政も 三井寺 に入ります。 三井寺の衆徒たちは、平家追討のため、城郭を構えて堀を深くしたのだとか・・・。 ただ、三井寺の僧兵の数では・・・。 『平家物語』によると、 比叡山 と 興福寺 に協力を要請していたようですが、比叡山からは返答がなかったようです。 園城寺 (三井寺) 『吾妻鏡』によると、 5月26日早朝、以仁王と源頼政は 興福寺 の僧兵を頼るため南都へと向かいます。 しかし、平知盛と平維盛ら二万騎に追いつかれ、宇治で合戦となりました。 その結果、源頼政、頼政の子(仲綱、兼綱、仲宗)、足利義房らが梟首され、以仁王は光明山の鳥居の前で討たれたのだそうです。 源頼政の墓 (平等院塔頭・最勝院) 興福寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

座間のひまわり畑2018/08/13

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45万本のひまわりが見頃です。 台風で倒れてしまった所も。 8月15日まで「ひまわりまつり」が開催されています。 座間市HP https://www.city.zama.kanagawa.jp/ 座間市観光協会HP https://www.zama-kankou.jp/ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画! 夏休み江の島計画!

源頼朝と鶴岡八幡宮の放生会

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1187年(文治3年)8月15日、 源頼朝 は 鶴岡八幡宮 で放生会を催します。 これが 鶴岡八幡宮例大祭 の始まりとされています。 放生会後には、 流鏑馬 も奉納されました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝 は、放生会に先立って、8月1日から15日までの間、殺生を禁止することを関東の荘園などに命ずるとともに、鎌倉の海、浜、川、溝などでもこれを守らせるよう命を出しています。 8月9日には、 流鏑馬馬場 が造られ、埒(らち)が結ばれました。 流鏑馬馬場 馬場に設けられた柵は「埒」(らち)と呼ばれ、的側が「男埒」(おらち)、反対側が「女埒」(めらち)で、男埒の方が高く設置されます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そして、8月15日。 放生会が催され、源範頼、平賀義信、加賀美遠光、安田義定、源廣綱、小山朝政、千葉常胤、三浦義澄、八田知家、足立遠元などが頼朝の供をしています。 放生会後の流鏑馬では、射手五騎の全てが的中させました。 一番 長江太郎義景 ( 鎌倉権五郎景政 の子孫) 二番  伊沢五郎信光   (武田信光・弓馬四天王の一人) 三番 下河辺庄司行平 (藤原秀郷の子孫・小山氏の一族) 四番 小山千法師丸 (?????) 五番  三浦平六義村   (三浦義澄の嫡男) 小笠原流流鏑馬 流鏑馬は、直線140間(約250m)の流鏑馬馬場に的を3個並べて騎乗して的を射る競技。 📎熊谷直実の逸話 📎諏訪盛澄の逸話 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼家の誕生日

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『吾妻鏡』によると、 1182年(寿永元年)8月11日、夜になって 北 条政子 が産気づくと、 源頼朝 は 比企邸 に赴き、祈祷のための奉幣の使者を 伊豆山権現 ・ 箱根権現 と近国8箇所の宮社に派遣しています。 ※政子は比企邸を産所としていました。 伊豆山 :土肥遠平 筥根 :佐野忠家 相摸一ノ宮 :梶原景高 三浦十二天:三浦義連 武蔵六所宮 :葛西清重 常陸鹿島:小栗重成 上総一ノ宮:上総良常 下総香取社:千葉成胤 安房東条庤:三浦義村 安房洲崎社 :安西景益 翌8月12日午後6時頃、政子は男子を出産。 後の 源頼家 です。 悪魔払いのため、 大庭景義 らによって「鳴弦」が、 上総広常 によって「引目」の儀式が行われます。 午後8時頃、乳母になる河越重頼の妻が呼ばれ、初めて乳を与える儀式が行われました。 (河越重頼の娘は、頼朝の乳母だった 比企尼 の娘です。) 若宮大路 北条政子が懐妊したことを機に、 源頼朝 は、 鶴岡八幡宮 の参道 「若宮大路」 の造営にとりかかります。 なかなか着手できないでいたのですが、政子の安産祈願のために始められました。 頼朝自らが指揮し、 北条時政 らの御家人が土や石を運んだのだといいます。

謀叛を疑われた源範頼

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源範頼 は、 源頼朝 の異母弟。 遠江国蒲御厨で生まれ育ったため蒲冠者、蒲殿などと呼ばれていました。 異母弟の 源義経 とともに 木曽義仲 や平家を滅ぼすなどの活躍をしました。 しかし、1193年(建久4年)、謀叛を疑われてしまいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ この年の5月、 頼朝 は富士裾野で大規模な 巻狩 を催します。 そのときに起こったのが 曽我兄弟の仇討ち 。 5月28日夜半、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟が 工藤祐経 を殺害した事件です。 頼朝は無事でしたが・・・ 『保暦間記』によると、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する 北条政子 に 範頼 は「私がいるから心配ない」と発言。 これを知った頼朝は、範頼の謀叛を疑ったのだとか。 ただ・・・ 『吾妻鏡』には、5月30日に富士裾野からの使者が到着した記事が載せられていますが、 曽我兄弟の仇討ち があったことを伝えているだけのようです。 曽我兄弟の仇討ち以降、範頼が『吾妻鏡』に登場するのは8月2日です。 この日、範頼は、起請文を書いて頼朝に提出しました。 これは、反逆を企んでいると聞いた頼朝が、それを範頼に尋ねたため書かれたもの。 だだ、起請文の署名が三河守源範頼となっていたため、 頼朝は「源の文字を使うのは、源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」 として激怒したそうです。 そのことは範頼に伝えられています。 8月10日、範頼の家来・当麻太郎が、頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝所の床下に忍び込みます。 しかし、頼朝に感づかれて捕らえらえてしまいます。 範頼は知らなかったようですが、当麻太郎は範頼が頼りにしていた武士として知られていたようです。 8月17日、範頼は伊豆国の狩野宗茂、宇佐美祐茂らの預けられました。 その後、範頼がどうなったのか『吾妻鏡』からはわかりませんが・・・ 修禅寺 に幽閉された後、間もなく 梶原景時 らに攻められて自刃したのだと伝えられています。 他にも様々な伝説が残されているようですが・・・ 源範頼の墓 (伊豆市修善寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆