別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年8月14日火曜日

挙兵して敗れた以仁王と源頼政

以仁王は後白河天皇の第三皇子。

三条高倉に御所があったことから、三条宮あるいは高倉宮と呼ばれていました。


『吾妻鏡』によると、

1180年(治承4年)4月9日、以仁王は、源頼政の勧めで全国の源氏に平家追討の令旨を発布。

(※伊豆の源頼朝のところには4月27日に届いています。)


これに対して朝廷は、

5月15日、以仁王を土佐国流罪と決定。

検非違使の源兼綱と藤原光長らが三条高倉御所へ向かいますが、事前に源頼政からの知らせを受けていた以仁王は三井寺に逃げ込んでいます。

5月19日には源頼政も三井寺に入ります。

三井寺の衆徒たちは、平家追討のため、城郭を構えて堀を深くしたのだとか・・・。

ただ、三井寺の僧兵の数では・・・。

『平家物語』によると、比叡山興福寺に協力を要請していたようですが、比叡山からは返答がなかったようです。



園城寺
(三井寺)

『吾妻鏡』によると、

5月26日早朝、以仁王と源頼政は興福寺の僧兵を頼るため南都へと向かいます。

しかし、平知盛と平維盛ら二万騎に追いつかれ、宇治で合戦となりました。

その結果、源頼政、頼政の子(仲綱、兼綱、仲宗)、足利義房らが梟首され、以仁王は光明山の鳥居の前で討たれたのだそうです。


源頼政の墓
(平等院塔頭・最勝院)

興福寺






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