源頼朝挙兵!
蛭ヶ小島 (伊豆の国市) 1159年(平治元年)12月に起こった 平治の乱 に父 源義朝 とともに出陣した 源頼朝 。 しかし、 平清盛 に敗れ、翌1160年(永暦元年)3月11日、 伊豆国 へ流されました。 流された場所は 蛭ヶ小島 だったといいます。 伊豆国での頼朝は、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどが禁止されていたようですが、乳母たちの援助によって、生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったのだといいます。 伊豆配流の間、 北条政子 と結婚して大姫が誕生しています。 政子と結婚後は 北条館 に住んでいたようです。 北条氏邸跡 (伊豆の国市) 約20年間を伊豆国で過ごした 頼朝 ですが・・・ とうとう源氏再興の挙兵をする時がやってきます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』が伝える挙兵までの流れは以下のとおり。 1180年(治承4年)4月27日、以仁王が発した 平氏打倒の令旨 が届きます。 しばらく静観していた頼朝でしたが、5月26日、以仁王が 源頼政 とともに敗死(平等院の戦い)。 6月19日には、平氏が全国の源氏追討を計画していることが 三善康信 の書状によって報告されます。 康信の書状には早く奥州へ逃れるように書いてあったようですが、頼朝は、この報告によって、挙兵の決意をしたようです。 (※三善康信は、頼朝の乳母の妹の子といわれ、伊豆に流された頼朝に、月に三度、京の情報を届けていたのだと伝えられています。) 6月27日には、大番役の帰りに 三浦義澄 と千葉胤頼が 北条館 の頼朝を訪れています。 何が語られたのかは不明ですが、おそらく挙兵の事が話されたのかと・・・ (※三浦義澄は 三浦義明 の嫡男。千葉胤頼は 千葉常胤 の六男。) 8月2日、平等院の戦いに出陣していた 大庭景親 をはじめとする平氏方の武将が東国に帰ってきました。 8月4日、 頼朝 は、 北条時政 を呼んで 山木兼隆 を討つべく軍略を練ります。 頼朝は、この日以前に藤原邦通を密偵として 山木館 に送り込んで、館図や地図を作らせていました。 そして、この日、邦通が作成した館図と館付近の地図が届けられました。 その出来映えは、まるで現地にいる