別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2017年8月14日月曜日

源頼朝挙兵!


(伊豆の国市)

1159年(平治元年)12月に起こった平治の乱に父源義朝とともに出陣した源頼朝

しかし、平清盛に敗れ、翌1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国へ流されました。

流された場所は蛭ヶ小島だったといいます。

伊豆国での頼朝は、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどが禁止されていたようですが、乳母たちの援助によって、生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったのだといいます。

伊豆配流の間、北条政子と結婚して大姫が誕生しています。

政子と結婚後は北条館に住んでいたようです。


北条氏邸跡
(伊豆の国市)

約20年間を伊豆国で過ごした頼朝ですが・・・

とうとう源氏再興の挙兵をする時がやってきます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『吾妻鏡』が伝える挙兵までの流れは以下のとおり。

1180年(治承4年)4月27日、以仁王が発した平氏打倒の令旨が届きます。

しばらく静観していた頼朝でしたが、5月26日、以仁王が源頼政とともに敗死(平等院の戦い)。

6月19日には、平氏が全国の源氏追討を計画していることが三善康信の書状によって報告されます。

康信の書状には早く奥州へ逃れるように書いてあったようですが、頼朝は、この報告によって、挙兵の決意をしたようです。

(※三善康信は、頼朝の乳母の妹の子といわれ、伊豆に流された頼朝に、月に三度、京の情報を届けていたのだと伝えられています。)

6月27日には、大番役の帰りに三浦義澄と千葉胤頼が北条館の頼朝を訪れています。

何が語られたのかは不明ですが、おそらく挙兵の事が話されたのかと・・・

(※三浦義澄は三浦義明の嫡男。千葉胤頼は千葉常胤の六男。)

8月2日、平等院の戦いに出陣していた大庭景親をはじめとする平氏方の武将が東国に帰ってきました。

8月4日、頼朝は、北条時政を呼んで山木兼隆を討つべく軍略を練ります。

頼朝は、この日以前に藤原邦通を密偵として山木館に送り込んで、館図や地図を作らせていました。

そして、この日、邦通が作成した館図と館付近の地図が届けられました。

その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。

(※山木兼隆は、当時の伊豆国の目代)

8月6日には、山木館襲撃を17日と決定。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~信心深かった源頼朝~

7月4日、頼朝は、走湯権現(伊豆山権現)の文陽房覚淵を北条館に呼び出しています。

挙兵前に法華経を千回読むつもりでいたようですが、それを達成することが難しくなりました。

そこで「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覚淵に尋ねたとのだといいます。

すると覚淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたそうです。


伊豆山神社
(熱海市)

古くは伊豆山大権現または走湯大権現とも称された社。

挙兵後、政子と大姫は伊豆山神社に身を潜めていました。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~挙兵の前日~

挙兵の前日は一日中雨でした。

佐々木四兄弟には、8月16日に到着するよう言ってありましたが、未だに到着していません。

頼朝は、人数が集まらないので、明日の合戦を躊躇していたといいます。

しかし、日延べするにしても・・・

18日は、幼児のころから観音さまを祀って祈る日となっていますので、合戦はできません。

19日になれば、密事が世間にばれてしまうでしょう。

そして、佐々木四兄弟は、平家の家人渋谷重国に面倒をみてもらっているので、彼らに密事を漏らしたことを後悔したのだとか・・・。


早川城址
(綾瀬市)

佐々木四兄弟(定綱経高盛綱高綱)は、近江源氏・佐々木秀義の子。

1159年(平治元年)の平治の乱源義朝に味方して敗れた秀義は、藤原秀衡を頼るため奥州へ向かう途中の渋谷庄で渋谷重国に引き止められ、子らとともに重国の保護を受けていました。

早川城は重国の居城。

頼朝の弟阿野全成も匿われていたといいます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~挙兵の日~

8月17日の午後になって佐々木四兄弟が到着しました。

定綱経高は疲れた馬で、盛綱高綱は徒歩での到着です。

頼朝はとても喜びます。

そして、涙を浮かべながら、

「お前達の遅刻で、予定していた今朝方の合戦が出来なかった。残念である」と語ります。

佐々木四兄弟は、「洪水のため遅れました」と申し上げ、謝罪したといいます。


その晩、頼朝山木館を攻めさせます。

加藤景廉佐々木盛綱は、留守番として頼朝の傍らにいました。

まず、佐々木定綱経高高綱の三人が、山木兼隆の後見役堤権守信遠を討ちます。

このとき、経高の放った鏑矢が、平氏を征伐するための最初の矢でした。

その後、佐々木兄弟は、山木兼隆襲撃の軍に加わります。

頼朝は「戦が始まったら火をつけるように」と命じていましたが・・・、

その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉佐々木盛綱堀親家らを山木館へ向かわせました。

景廉には長刀を与え「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています。

そして、盛綱景廉は兼隆の屋敷内に入り、見事に兼隆を討ち取ります。

兵達が帰ってきたのは、18日の明け方でした。


(三島市)

挙兵した8月17日は、信仰していた三嶋大社の例祭の日。

頼朝は、源氏再興を祈願するため、百日間毎暁、日参していたのだと伝えられています。


三嶋大祭り

毎年行われている三嶋夏祭り、今年から三嶋大祭りと改められています。

16日には頼朝公旗挙行列があります。


(伊豆の国市)

挙兵前には守山八幡宮で源氏再興の祈願を行ったといいます。

守山八幡宮は、北条館があった守山中腹に鎮座する神社。


香山寺
(伊豆の国市)

山木兼隆が建立した寺と伝えられています。

香山寺には兼隆の供養塔があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

歴史めぐり源頼朝

源頼朝配流地


よりともジャパン.com

検索

Translate