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鎌倉カーニバル2015・・・由比ヶ浜

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鎌倉海浜公園(由比ヶ浜) で行われていた鎌倉カーニバルの様子です。 かつて、久米正雄や大佛次郎らの発案で開催されていた鎌倉カーニバル。 昭和9年から昭和37年まで続いた鎌倉の夏の風物詩だったといいます。 会場のテントには、当時の写真が展示されていました。 鎌倉カーニバルは今日(23日)まで。 鎌倉海浜公園由比ヶ浜地区で15:00~20:00。 詳しくは→ http://www.rootculture.jp/carnival/2015/ ・・・・・・・・・・・ 鎌倉の海 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi.htm

長谷の灯かり・・・2015/08/22

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今日から始まった 長谷の灯かり 。 入山すると提灯が配られます。 「長谷の灯かり」 は自身が光となる参加型イベント。 提灯の色はライトアップにあわせて変化します。 観音堂 経蔵 竹林 阿弥陀堂 かんのんね 桜の木の下には涼感を誘う風鈴。 祈りの和音「かんのんね」 書院の枯山水 放生池 地元の皆さんによる門前の夜市 山門 長谷の灯かり は8月30日(日)までです。 ・・・・・・・・・・・ 長谷の灯かり http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/hase-no-akari.html

三浦義明と多々良重春の墓・・・鎌倉:来迎寺

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材木座の 来迎寺 は 源頼朝 が 三浦義明 の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としています。 墓地には三浦義明とその孫の多々良重春の五輪塔があります。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵を果たした 源頼朝 は、相模国へ進軍します。 そして、23日、 石橋山 に布陣します。 三浦義明 は、22日、嫡男の 三浦義澄 ら一族を援軍として送り出しましたが、折からの雨で酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いに間に合うことができませんでした。 24日未明、頼朝が敗走した知らせを受けた三浦軍は、 衣笠城 へと引き上げます。 しかし、 由比ヶ浜 で 畠山重忠 軍と遭遇し合戦となってしまいます(小坪合戦)。 この合戦で義明の孫・多々良重春が討死しました。 両軍、被害を受けて兵を引いたのですが・・・ 26日、 畠山重忠 は河越重頼と江戸重長に協力を要請して衣笠城の攻撃を開始します。 三浦軍は城に籠もり戦いますが、やがて矢も尽き、城を捨てることとします。 しかし、総帥の 義明 は・・・ 「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。わしは、城に残り、河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」 といって城を出ませんでした。 一族は泣きながら義明の決定に従ったといいます。 27日、 義明 は、河越重頼と江戸重長の軍に討ち取られました。 (城内で自刃したとも伝わっています。) 三浦一族の墓 (来迎寺) 城を出た 三浦義澄 らは、安房へと向かい、源頼朝と合流しています ・・・・・・・・・・・ 来迎寺 https://www.yoritomo-japan.com/page135raikoji.htm

今日から長谷の灯かり・・・夏の終わりの光のまつり:長谷寺

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長谷の灯かり は今年から始まる光のまつりです。 ・・・・・・・・・・・ 長谷の灯かり http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/hase-no-akari.html

板橋地蔵尊の大祭・・小田原

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8月23日、24日は小田原市板橋の旧東海道沿いにある延命子育地蔵菩薩( 板橋地蔵尊 )の大祭。 この日に参ると亡くなった身内と瓜二つの顔の人に出会えるのだとか・・・。 地蔵堂では、地蔵尊に蝋燭の供養を行ってもらえます。 上の写真の柱に「おろー」と書かれていますが蝋燭のこと。 板橋地蔵尊 は、箱根の白銀山に祀られ、 日金山 の地蔵尊とともに信仰されていたのだといいます(箱根の金銀の地蔵尊)。 日金山の地蔵尊は 源頼朝 が信仰し、模刻像を造立して鎌倉に祀りました(現在は横須賀の 東漸寺 に安置されています。)。 頼朝と箱根とは深い関係にあります。 もしかしたら、板橋地蔵尊も頼朝が信仰した地蔵尊なのかもしれません。 ※初日の23日には旧東海道沿いに多くの露店が並びます。

苑池の姿が見えてきた永福寺跡

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永福寺 は、 奥州平泉 の寺院に魅せられた 源頼朝 が建てた幻の寺院。 現在、苑池の復元工事が進められています。 発掘調査の結果では、宇治の 平等院鳳凰堂 前の阿字池のようだったそうです。 永福寺跡 永福寺 の本堂は1192年(建久3年)に完成。 中尊寺 の 大長寿院 を模したものだったといいます。 二階堂とも呼ばれ、その名は今も地名として残されています。 1193年(建久4年)には阿弥陀堂が、さらにその翌年には薬師堂が建立されました。 ・・・・・・・・・・・ 平等院鳳凰堂 無量光院復元図 平泉 の 無量光院 は、奥州藤原氏三代の秀衡が 平等院 を模して建てたという寺院。 永福寺復元図 永福寺復元図 永福寺整備計画

鎌倉で悲運の最期を遂げた護良親王

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護良親王墓 護良親王 は、 後醍醐天皇 の第三皇子。 延暦寺 の大塔に入り「大塔宮」(おおとうのみや)とも呼ばれます。 大塔宮護良親王御遺跡の碑 (比叡山延暦寺) 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が倒幕のための「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。 足利高氏 (尊氏)、 新田義貞 の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。 その後、護良親王は、征夷大将軍に任ぜられますが、 足利尊氏 と対立。 1334年(建武元年)11月15日、鎌倉の東光寺に幽閉されてしまいます。 理智光寺跡碑 護良親王が東光寺に幽閉された翌1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が反乱を起こします( 中先代の乱 )。 鎌倉を守っていた 足利直義 は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害して鎌倉を逃れました。 殺害の理由は、時行が護良親王を奉じる危険があっためと考えられているようです。 護良親王 の首は、 理智光寺 の住僧によって葬られたと伝えられています。 北鎌倉の 東慶寺 五世の 用堂尼 は、護良親王の妹。 護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれています。 鎌倉宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041kamakuragu.htm 鎌倉宮 は、1869年(明治2年)、明治天皇が護良親王を祀るために創建した神社。 今日から鎌倉宮の例祭です。