別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2015年8月22日土曜日

三浦義明と多々良重春の墓・・・鎌倉:来迎寺

材木座の来迎寺源頼朝三浦義明の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としています。

墓地には三浦義明とその孫の多々良重春の五輪塔があります。




1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、相模国へ進軍します。

そして、23日、石橋山に布陣します。


三浦義明は、22日、嫡男の三浦義澄ら一族を援軍として送り出しましたが、折からの雨で酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いに間に合うことができませんでした。

24日未明、頼朝が敗走した知らせを受けた三浦軍は、衣笠城へと引き上げます。


しかし、由比ヶ浜畠山重忠軍と遭遇し合戦となってしまいます(小坪合戦)。

この合戦で義明の孫・多々良重春が討死しました。


両軍、被害を受けて兵を引いたのですが・・・


26日、畠山重忠は河越重頼と江戸重長に協力を要請して衣笠城の攻撃を開始します。

三浦軍は城に籠もり戦いますが、やがて矢も尽き、城を捨てることとします。


しかし、総帥の義明は・・・

「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。わしは、城に残り、河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」

といって城を出ませんでした。

一族は泣きながら義明の決定に従ったといいます。


27日、義明は、河越重頼と江戸重長の軍に討ち取られました。
(城内で自刃したとも伝わっています。)


三浦一族の墓
(来迎寺)


城を出た三浦義澄らは、安房へと向かい、源頼朝と合流しています

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