別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2015年8月19日水曜日

鎌倉で悲運の最期を遂げた護良親王



護良親王は、後醍醐天皇の第三皇子。

延暦寺の大塔に入り「大塔宮」(おおとうのみや)とも呼ばれます。


 大塔宮の碑
(比叡山延暦寺)


1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が倒幕のための「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。

足利高氏(尊氏)、新田義貞の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。


その後、護良親王は、征夷大将軍に任ぜられますが、足利尊氏と対立。

1334年(建武元年)11月15日、鎌倉の東光寺に幽閉されてしまいます。




護良親王が東光寺に幽閉された翌1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が反乱を起こします(中先代の乱)。

鎌倉を守っていた足利直義は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害して鎌倉を逃れました。

殺害の理由は、時行が護良親王を奉じる危険があっためと考えられているようです。

護良親王の首は、理智光寺の住僧によって葬られたと伝えられています。


北鎌倉の東慶寺五世の用堂尼は、護良親王の妹。

護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれています。




鎌倉宮は、1869年(明治2年)、明治天皇が護良親王を祀るために創建した神社。


今日から鎌倉宮の例祭です。




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