(鎌倉:常楽寺)
『吾妻鏡』によると・・・
1194年(建久5年)2月2日、幕府で北条義時の嫡子泰時の元服の儀が執り行われました。
泰時の幼名は金剛。
源頼朝の前で元服した金剛は、「太郎頼時」と名付けられています。
この式で、三浦義澄の孫娘との婚約も決められ、1202年(建仁2年)8月23日、三浦義村の娘と結婚しています。
頼時から泰時に改名したのが、何時なのか、何故なのかはわかりません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~頼朝からの褒美~
『吾妻鏡』によると・・・
1192年(建久3年)5月26日、金剛は歩いて遊びに出かけました。
すると多賀重行がその前を下馬もせず通り過ぎたのだといいます。
その話を聞いた頼朝は、重行を咎めますが、重行はそのような非礼に覚えがないと弁明します。
金剛に聞いても、そのような事なかったと答えます。
しかし、頼朝は重行は嘘をつき、金剛は重行をかばっていると判断。
重行の所領を没収する一方で、慈悲深い金剛には刀を与えたのだとか。
金剛(泰時)は、のちに起こる承久の乱で頼朝から賜った刀を帯びていたのだといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』よれば、承久の乱に勝利できたのは「半分以上は泰時の手柄によるもの」と北条政子は語っています。
2022年の大河は北条義時!