1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲います。
翌1231年(寛喜3年)には大飢餓となり疫病が大流行しています。
飢饉は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれほどで、鎌倉時代最大規模の災害となったようです。
📎寛喜の飢饉
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『吾妻鏡』によると・・・
1231年(寛喜3年)4月、ある僧が祇園社(八坂神社)から受けた夢のお告げを洛中で発表したのだといいます。
5月4日、四代将軍九条頼経の父道家は、その内容を鎌倉へ送ってきました。
1人当たり五文か三文を献じて般若心経を読誦し、巽(南東)で鬼気祭を催せば流行病や餓死は収まる。
悪性の流行病は、6月18日までに発生するから、この御札を懸けるように。
□ 医王源□ 急々如律令
□□□ 山柘急々如律令
これを信じれば人民安穏・天下泰平である。
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その夜、御所では四角四境の鬼気祭を行なったのだとか。
5月17日には全国で伝染病が流行していることから、鶴岡八幡宮で天下泰平国土豊稔の読経が行われています。
八坂神社は、祇園精舎の守護神とされる牛頭天王を祭神としていたことから、祇園社と呼ばれていました。
祭礼の祇園祭は、全国に流行した疫病を鎮めるために行われた「祇園御霊会」を始まりとしていると伝えられています。
新型コロナウイルスの影響によるイベント・催事の開催の有無について(京都観光Navi)
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緊急事態宣言が発出されています。
旅行計画は新型コロナウイルス感染症が収まってから・・・