石橋山の戦いに敗れ、1180年(治承4年)8月29日、安房国平北郡猟島(現在の鋸南町竜島)に上陸した源頼朝は、9月1日、上総広常の屋敷に行くことに決め、9月3日、平北郡を出発します。
夜は民家に宿泊。
宿所を長狭常伴が襲おうと企てていたようですが、三浦義澄が討ち取っています。
9月4日、召集をかけていた安西景益が宿所に到着。
景益は頼朝に、
「広常の屋敷に行くべきではありません。
長狭常伴のような連中が多いので、使者を出して迎えにくるよう仰せられたらいかが」
と進言します。
それを聞き入れた頼朝は、安西景益の屋敷に行き、和田義盛を上総広常の所へ行かせました。
9月6日の晩、戻ってきた和田義盛の報告によると、上総広常は千葉常胤に相談した上で参上する旨の返答だったようです。
9月13日、頼朝は300騎を率いて安房国から上総国へ進みます。
9月17日、上総広常の参陣を待たず下総国へ。
この日、千葉常胤は一族を率いて頼朝のもとに参陣しています。
そして、9月19日、上総広常が2万騎を率いて参陣。
しかし、このとき広常はこう考えていたようです。
「ほとんどの者が平清盛に仕えている中、流人の頼朝殿は軽々しく挙兵した。
その姿に高貴な相がなければ、直ちに討って平家に引き渡そう」と。
その昔、平将門は、俵の藤太秀郷が味方に駆けつけたのを聞いて、喜びのあまり、髪を結わずに烏帽子の中におし入れて秀郷に会ったといいます。
秀郷は、将門のその軽率な行動を見て「誅罰すべし」と思ったそうです。
その後、将門は秀郷に討たれています。
この故事と同じように、2万騎で参じれば、頼朝はさぞ喜ぶと思っていた広常でしたが・・・
頼朝は喜ぶどころか広常の遅参に憤り、許そうとしませんでした。
広常は、頼朝を「人の主人となるべき人物」として、穏やかに従うこととしたそうです。
10月2日、頼朝は隅田川を渡り、3万騎にも膨れ上がった軍隊が武蔵国へと進むと、豊島清元、葛西清重、足立遠元が参陣。
10月4日、長井の渡しに達すると、畠山重忠、河越重頼、江戸重長が参陣。
そして10月6日。
頼朝は相模国に入ります。
先陣は畠山重忠、殿(しんがり)は千葉常胤が務めました。
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2022年の大河ドラマ