祇園女御は、晩年の白河法皇から寵愛をうけて権勢を持った女性。
その名は、祇園社の南東に屋敷があったことによるもので、白河にも住房があったことから白河殿とも呼ばれていたようです。
女御という位は、皇后・中宮につぐものだといいますが、女御の宣旨はなかったようです。
生年没、本名、素性などは不明。
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1105年(長治2年)、祇園の屋敷の隣接地に阿弥陀堂を建立。
堂には丈六の阿弥陀仏が安置され、供養には院の殿上人がすべて参加するほど盛大だったのだと伝えられています。
1111年(天永2年)には、仁和寺内に威徳寺を建立。
晩年は威徳寺の住坊に住んで、法皇の冥福を祈ったのだと伝えられています。
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京都祇園堂
かつては、女御の住居跡とされる場所に祇園女御塚があって触れると不幸になるという伝説があったのだといいます。
現在は京都祇園堂(阿弥陀堂京都祇園寺)が建立され、その前に女御の供養塔が置かれています。
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(京都御苑)
『平家物語』によると、白河法皇は、懐妊した祇園女御を平忠盛に下し、生まれた子が女子ならば自らが育てることとし、男子であったなら忠盛が育てるように命じたのだといいます。
そして、生まれたのは男子。
この子が平清盛なのだとか。
京都御苑の厳島神社は、清盛が母の祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請し、摂津国兵庫津の築島(経が島)に社殿を建てたのが始まりなのだと伝えられています。
(八坂神社)
女御の屋敷へ向かう白河法皇と平忠盛の伝説が残された八坂神社の燈籠。
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鎌倉との繋がりを求めて。